続いてホントすぐそばにある亀山城を見学しました。... 続きを読む
「愛知・岐阜車中泊の旅二泊三日」 古宮城
さて、城めぐりのイベントをこなして、本物の城めぐりに戻りましょう。
古宮城です。
前から来てみたかった所です。
縄張が凄いので、皆さんも調べてみて頂けるといいですよ。
古宮城は武田信玄公が馬場美濃守信房に命じ築城とあります。
馬場信春としても有名な方です。武田四名臣のひとり。築城の名手ですよね。
[caption id="attachment_2096" align="aligncenter" width="515"] ワンコっぽくてカワイイですね~。[/caption]
彼の築城したところは好きで訪れています。
[caption id="attachment_2097" align="aligncenter" width="515"] こっちもカワイイ、やっぱ、ワンコだよなぁ。[/caption]
訪れたのは、深志城、牧之島城、諏訪原城、ここは初めてですが古宮城など。
江尻城、田中城、小山城はまだ見てないですねぇ~。
いつか、ゆっくり見て回ります。
馬場信春公の縄張りは特徴的なものが多いと思っています。
ここ、古宮城もかなり個性的な縄張りです。
[caption id="attachment_2102" align="aligncenter" width="515"] 東城から南方向 [/caption]
ずっと来たかった所なので、ゆっくり見て回りました
生憎と杉林に埋もれてしまって、ちょっと写真では、縄張りが分かりにくいです。
下が城の真ん中で左右にぶった切る大きな竪堀です。
[caption id="attachment_2105" align="aligncenter" width="515"] 真ん中を北方向にぶった切る竪堀[/caption]
しかし、迷路のような土塁と堀が続きます。
西城から南方向の迷路の様な土塁と堀
凄いですねぇ~。
[caption id="attachment_2107" align="aligncenter" width="515"] 西城から西方向[/caption]
当時は東、北、南と現在の田んぼは湿地地帯だったようです。
[caption id="attachment_2108" align="aligncenter" width="515"] 西城から北方向[/caption]
なので、かなりの防御力だったのではないでしょうか。
[caption id="attachment_2109" align="aligncenter" width="515"] 中央の竪堀の真ん中あたりから西方向[/caption]
西側は南から北への街道筋です。
[caption id="attachment_2110" align="aligncenter" width="515"] 中央の竪堀辺りから北方向[/caption]
それを押さえるように作るのが、城の意味でもあるわけですから、いい場所にありますね。
馬場信春公の後半期の城は面白いですねぇ~。
おススメします。
諏訪原城は面白くて3回も見に行きました。
武田勝頼公時代に、国力があればまだまだ、負けなかったように思います。
いつの時代でもそうでしょうが、国力が無ければ勝てないのですよね。
一通り歩いているうちにお昼になり食事です。
すぐ近くにある、道の駅 つくで手作り村でご飯を頂きました。
自分は手作り村定食
ちょっと、値段が高いかなぁ。
嫁さんは、何故か「いのししカレー」
いのししは感じなかったとのこと。
何か、並んでいるのは、フランクフルトが有名らしいですね。
自分たちは先を急ぐので頂きませんでした。
古宮城跡の地図を載せておきますね。
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東海を巡る真冬の旅 六日目 新城市 長篠城
続いて長篠城です。ここが早く落とせていたらまた、その後の設楽原の合戦は展開が違ったものになっていたかも知れませんね。
[caption id="attachment_3989" align="aligncenter" width="515"] 長篠城縄張り図[/caption]
正に武田家にとっての運命の分かれ道。
写真にある通りこの時点で武田は最大版図となっています。かなりな勢力です。
[caption id="attachment_3990" align="aligncenter" width="515"] 長篠城攻城時の武田版図[/caption]
ここでの勝頼公の大きな選択が、その後の衰退へ導かれて滅亡となりました。
[caption id="attachment_3991" align="aligncenter" width="515"] 左側二の丸と右側本丸を宇連川方向へ望む[/caption]
自分が思うに決して武田勝頼公は愚鈍な人では無かったと思います。
自分が思うのは財力とカリスマ(斬新的な知力を含めた)の差ではないかと思います。
[caption id="attachment_3992" align="aligncenter" width="515"] 左側本丸で右側二の丸資料館方向を臨む[/caption]
この兜が物語るように、鉄砲を最大限に生かす戦法への転換点となったことが大きいです。
[caption id="attachment_3993" align="aligncenter" width="515"] 赤い槍が有名な長坂血槍九郎の槍[/caption]
織田はこれまでの間に、大阪本願寺との戦で、雑賀との戦で鉄砲を用いた戦を嫌というほど負けながら実感していることが大きいです。
[caption id="attachment_3994" align="aligncenter" width="515"] 兜に鉄砲の弾痕[/caption]
その負け戦から学んだ鉄砲活用法をさらに進化させて、上手く野戦に用いたというところが信長の凄さですよね。
[caption id="attachment_3995" align="aligncenter" width="343"] 長篠城址の碑[/caption]
負けても死ななければ良い、そしてまた戦して、また負けて、段々と戦が上手くなっていく、そういう判断力ってなかなかできないものです。
[caption id="attachment_3996" align="aligncenter" width="515"] 本丸から真中左の資料館を臨む[/caption]
逆に武田はこの時点で信玄公の行った戦のやり方からはあまり進歩していないのですよね。
[caption id="attachment_3997" align="aligncenter" width="515"] 攻城側の武田軍の陣に関して[/caption]
この辺りの差が非常に大きかったのだろうと思います。
[caption id="attachment_3998" align="aligncenter" width="515"] 本丸先にある川の合流点に近い野牛郭[/caption]
しかし、遺言通りに上杉謙信公と和睦していればなぁ。。この戦自体勝っただろうと思います。
[caption id="attachment_3999" align="aligncenter" width="515"] 長篠城周辺の史跡マップ[/caption]
しかし、ホント要害の地ですよね。
長篠城、500人で守ったのだからなぁ。。
まぁ、確かにあまり大きい城ではないです。
国土地理院の地図で見てみましょう。
地続きの北側しか攻めるところが無いですよね。
なので、こちらに水堀、空堀が巻いているのが分かるかと思います。
攻めにくい城だったことが良くわかりますよね。
合戦場との位置関係はこんな感じです。
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東海を巡る真冬の旅 六日目 豊橋市 吉田城
さて6日目となりました。吉田城に参りました。伊勢から徐々に埼玉に向かって帰っているわけですが、本日の予定は吉田城、設楽が原の合戦地、長篠城、浜名湖、浜松城を巡る予定です。
[caption id="attachment_3962" align="aligncenter" width="386"] 吉田城本丸にある鉄櫓[/caption]
吉田城は、まだ遺構が割と残っているので、寄って見たかった所です。
再建された模擬天守閣があります。ですが、本丸のすぐ後ろは豊川です。
[caption id="attachment_3963" align="aligncenter" width="512"] 吉田城本丸北側を流れる豊川[/caption]
川幅はかなりあり、簡単には攻めることは出来ないですが、本丸がむき出しなのはどうかなぁ。。と言う点と、
豊川の流れの影響をもろに受けるので、浸食が激しいのではないかなと思います。
ただ、海に近いので流れが穏やかなので、さほど浸食も無いのかもしれません。
上野の厩橋城や広島城のように次第に川の浸食で城が壊れるということはないようです。
こういった、縄張りを後堅固の縄張りと言うようですが、ちょっとどうかなぁ。。って思いますよね。
[caption id="attachment_3964" align="aligncenter" width="512"] 後堅固と言われる吉田城の縄張り[/caption]
この縄張り図からすると、川を境にして三方向の東と南と西に防御が厚いので、そちらに敵を想定して作っているわけですね。
築城当時(1505年頃)は、今川氏親の命によって、牧野氏が安祥城の松平長親の東三河進出を警戒、尚且つ、渥美郡全域で力を奮っていた戸田宗光をも警戒して築城したといわれています。
現在の縄張りと築城当時の縄張りはかなり違うのではないかと思いますが、立地条件からする感じでは思いっきり戸田氏を警戒しているのではないかと思いますね。
実際、牧野氏と戸田氏と松平氏で奪い合いになり、双方で代わるがわる城主になっています。
う~ん。なかなか壮絶な場所ですね。
この時代、この辺りは、今川氏、松平氏、織田氏でかなり抗争していますよね。
[caption id="attachment_3965" align="aligncenter" width="512"] 吉田城本丸を東側から、奥に鉄櫓が見える[/caption]
節目はやはり家康が独立してからでしょうかね。
家康が桶狭間の戦い以後、独立してまず岡崎城を本城として活動を開始します。
その後すぐ清洲同盟にて織田氏と同盟、後ろが楽になったので、東方向へ進出していきます。
そのとき徳川四天王の一人、酒井忠次へこの吉田城を預けます。
[caption id="attachment_3966" align="aligncenter" width="512"] 吉田城の堀(土塁)、道が本来は堀だった所[/caption]
岡崎城は石川数正が城代。
そしてその後の今川氏真の動きが緩慢なのでどんどん進出されていき、武田・徳川の同時作戦で今川崩壊となります。
家康は遠江を侵攻し浜松城を築城して本城とする。
その後は武田氏との10年戦争ですね。
特にこの吉田城は、元亀2年(この年なのか論争になってますね。)の春に、武田軍が進出して、吉田城を囲まれる。が、酒井忠次以下の必死な働きによって守り抜いた。
という所が吉田城的には、一番盛り上がるだろう所ではないでしょうか。
[caption id="attachment_3967" align="aligncenter" width="512"] 吉田城の堀、川面に対して台地になっているので、かなり良い所に城がある。[/caption]
自分的には武田VS徳川十年戦争は、武田勝頼公と徳川家康公、お互い同士苦闘の歴史ですよね。
お互い頑張った感が凄く強いですよね。
本能寺の変後、家康に武田軍団が吸収されていったのも、互いを認め合っていたからなんだろうというのが伝わって来ますよね。
しかし、武田派の自分としては、信玄公がもっと早く飛騨を抑え、美濃へ進出して信長が台頭するのを抑えるという形になっていればなぁ。。と思います。
飛騨の鉱山と美濃の豊穣の地を抑えたら、恐らく継続的に戦が出来たのではないでしょうかね。
しかし、最近の研究では信長包囲網も無かったのではないかとか。
武田信玄公もあまり織田とは戦したくなかったとか。
[caption id="attachment_3968" align="aligncenter" width="480"] 吉田城鉄櫓の石垣[/caption]
とはいえ、現在残っている縄張りは池田輝政公時代のものとなるらしく、秀吉の意向がかなり入っているのではないでしょうか。
と言うのは、関東から来るであろう家康を抑えるために、背水の陣(後堅固)の城にしている訳ですしね。
しかし、東三河四郡で十五万二千石になるらしいです。
結構、豊かな土地なんだと思います。
武田信玄公の最大版図で甲斐20万石+信濃30万石+駿河20万石+上野半分20万石+飛騨と越中の一部で10万石+遠江20万石位=トータル120万石ぐらいではなかったでしょうか。
そのくらいだったように言われていますので、やっぱり平地の穀倉地帯と海があり港がないと貿易からの収入が厳しいですよね。
さ、あと、この近くの気になる城は、戸田氏が関わる田原城、二連木城と、松平氏の安祥城などが見どころではないでしょうか。
しかし、色々なお城に行きますが、同じ城は一つも無いので、どこに行ってもたのしめますよね。
土のお城も楽しいし、石垣のお城も楽しい、山城もいいし、平城もまたいいしなぁ。
今回の吉田城は、天守の石垣は野面積みで野面積みが好きな自分にはいい感じです。
武田信玄公と武田勝頼公の本は色々と読みましたが、新田次郎さんの本が読んで見て一番いいように思います。
今回、徳川との闘いが深堀していきたいならば、これがおススメです。
あと、最近では、この本が注目ですね。
元亀2年の信玄の三河侵攻は無かった・・・ということになりそうです。
研究が進むとどんどん話が変わって行きますね。
それはそれで楽しいものです。
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東海を巡る真冬の旅 知多半島 佐治氏の大野城
神戸城を後にして、さて、お昼ですね。先を急ぐので、簡単に済ませたいところです。久々ですが、四日市の幸楽苑に入って見ました。
ラーメンで簡単に済ませ、車を進めて行き、名古屋市内の渋滞にあまり会うこともなく進むことができました。
名古屋市内を走っていると、皆さんほぼスタッドレスタイヤは履いてませんね。
都市部特有の「雪はそんなに降らない」「自分は事故らない」という根拠のない自信を持つ方が非常に多いですよね。
そういう人に限って、陸橋が凍って滑って事故るという過信からの事故が多いのではないかと思います。
大した額でも無いのだから、保険代わりに買えばいいと思うんですよね。
買わない人の次にいう言葉は決まっていて「履き替えるの面倒」です。
人を轢いてからじゃ遅いんだよなぁ。と思います。
今はオールシーズンタイヤという都市部に降る位の雪なら全然OKというタイヤもあるので、それにすればいいと思います。
最近の物は評価も上がってるので、おススメだと思います。
自分も次はこれにしようと思ってますよ。
同僚がこれ履いていて、「履き替えなくてイイよ」って言ってたので、ちょっと揺らぎますね。
さ、そんなタイヤ談議は置いといて、
国道155号線を南に常滑市方面へ走っていると、
「ん?正面に城が見えるけど、こんなところに城かぁ。まぁ、でも寄ってみますか。」
ということで、行ってみました。
[caption id="attachment_3265" align="aligncenter" width="384"] 常滑の大野城[/caption]
どこも模擬天守ってあるけど、実際天守なんてなかったところばっかりですよね。
大野城というお城です。全然、知りませんでした。
天守風にしないで櫓にすればいいと思うのですがねぇ。
それでもまだ、ここは櫓風でもあるかな?なので、良い方でしょうかね。
[caption id="attachment_3266" align="aligncenter" width="512"] 大野城の説明板[/caption]
素晴らしいですね。
むしろ、潔し。
開き直っている所がいいです。
説明板の最後に(*なお、この建物は当時の建物を復元したものではありません。)とあります。
[caption id="attachment_3267" align="aligncenter" width="512"] 大野城の城門[/caption]
佐治氏は室町時代の終わり頃から戦国時代に四代の城主が続いて知多半島一帯に勢力を張っていたと言われています。
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大野城址の沿革
ここは4代続いた、佐治氏の城があったところ。古くは宮山城とか大野城と呼ばれていました。
一代と二代は省略、目ぼしい所のみ記載
三代 佐治八郎信方(元亀2年(1571年)5月9日没)
織田信長の妹のお犬の方を嫁に貰う、それに伴い信長の傘下に入るが、伊勢長島の戦いで討ち死に。
四代 佐治与九郎一成(寛永11年(1634年)没)
お市の方と浅井長政の娘で三女の(信長の姪)江を嫁としたが、小牧長久手の戦いで秀吉の勘気を被り離婚、大野城退去後は、伊勢に居り後に京都で病死したと伝えられている。
江のほうは羽柴秀勝へ再嫁するも、文禄の役中に朝鮮国の巨済島において羽柴秀勝が病死してしまう。
その三年後に二代将軍となる徳川秀忠へ嫁ぐことになる。
[caption id="attachment_3805" align="aligncenter" width="515"] 大野城本丸展望台からの眺め、防御の為、斜面をきつくしている様子が伺える[/caption]
この中で、まず気になるのは三代の信方公の嫁が信長の妹のお犬の方という所でしょうね。
要するに妹を嫁に出すほど重要だったこと。
お犬の方はお市の方と同じ母親の土田御前から生まれています。
お市の方は絶世の美女と言われていますので、お犬の方もさぞかし綺麗な方だったのではないでしょうかね。
[caption id="attachment_3269" align="aligncenter" width="512"] 大野城の空堀[/caption]
知多半島を抑えるために美人の妹を送る。したたかなやり方ですね。ハイ。
こういうところは上手いですよね。信長。
[caption id="attachment_3270" align="aligncenter" width="512"] 大野城本丸展望台からの眺め伊勢湾方向[/caption]
実際に嫁いでいたかは不明とも言われているらしいですが、婚約はしていたのは事実らしいです。そして、次に徳川秀忠の奥方のお江の方が最初に嫁いだ相手ですね。
でも、佐治一成公は不運な方ですね。
しかし、ここ眺めが良く伊勢湾を一望できます。
[caption id="attachment_3271" align="aligncenter" width="512"] 大野城本丸展望台からの眺め北方向[/caption]
水軍も有し、伊勢湾を制していたらしいので、結構、佐治氏も全盛期は侮れない勢力だったのでしょうね。
[caption id="attachment_3272" align="aligncenter" width="512"] 大野城本丸からの眺め[/caption]
でなければ、お江を嫁にするほど重要だったという裏付けが無いわけですからね。
しかし、なかなかの標高差ですね。いい場所というか良い立地にありますよね。
空掘りもしっかりと残っているし、まずまずのお城ではないでしょうか。
その後の大野城ですが、すぐ廃城になります。
三代の信方が長島一向一揆で戦死したが、嫡子佐治一成が幼少だったので、織田信長の弟織田長益(有楽斎)が知多郡を与えられ、大野城を与えられる。
織田長益は大野城の水利が悪いため嫌い、大草の地に築城を始める。
が、本能寺の変が勃発し、途中放棄で再び荒廃。
小牧・長久手の戦い後、長益が摂津国に移封されたため完成を待たずして廃城となった。
大草城は本丸、二の丸、三の丸を配し、本丸、二の丸の周囲を堀(水堀も)と土塁で囲った梯郭式縄張が良好な状態で残り現在も見ることができる。
江戸時代に入ると、尾張藩は大草城跡を知多郡の防御上重要な地として、家老の山澄淡路守英龍に大草の地(5,000石)を与え城址近くに居を構えて城址の保全をさせ、歴代の山澄氏によって保存された。
現在でも城跡の周辺に東屋敷や西屋敷などの大字が残る。
とのことで、やはり良い場所に城があるということですね。
大野城はちょっと小さいので、大草城と大野城で連携すると面で対処できるので、効果が上がりますよね。
そんなところを見越していたのでしょうかね。
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