真夏の新潟を巡る旅 二日目 道の駅 マリンドーム能生

さて、津南から能生まできました。

道の駅 マリンドーム能生にて車中泊です。

ここ、夏場は初めて来ましたが、セブンイレブンがやっているのですね。

以前来たときは夜中だったので、気がつかなかったです。

(あとで調べたら2018年2月にオープンとのこと。以前来たときはそれよりも前だったので、無かったですね。ww)

ここは夕景が綺麗でした。

道の駅マリンドーム能生からの夕景
道の駅マリンドーム能生からの夕景

素晴らしいですね。絵画のようです。

夕ご飯は以下のラインナップです。

自分たちは、割と近所のスーパーでお惣菜を買ってきて食べるようにしています。

理由は飲みたいからですね。ハイ。

なので、「つまみ」というか「当て」みたいなものばっかりです。

夏場はこれでいいのですが、冬場の車中泊では暖かいものが食べたくなりますね。

サンエー 能生店
サンエー 能生店
サンエー 能生店
サンエー 能生店
サンエー 能生店
サンエー 能生店
サンエー 能生店

おおよそ、夕食の費用は夫婦で毎回千五百円~2千五百円位です。

費用を抑えるには、できるだけ割引されたものがいいですよね。

なので、夕方に温泉に入り、そのあとスーパーへ買い出しという感じです。

さて、この日は途中、お酒が足りなくなり、道の駅のセブンイレブンで追加購入しました。

ん~、便利。

前の晩の、関越道路の谷川PAは標高が高いのでグッスリ寝ましたが、ここ、マリンドーム能生の夏場は風が無くて暑かったです。

2018/8/4の夜は熱帯夜でした。一晩中28~9℃くらいだったようです。

USB扇風機は回しっぱなしでしたが、ちと、厳しいですね。

クーラーが欲しくなりました。

翌日は、そのまま観光せず、真っ直ぐ高速を利用して帰りました。

真夏の新潟を巡る旅 二日目 津南ひまわり広場 へぎそば

大井田城から移動して、そろそろ、お昼になるから、早めに食べようと調べると、へぎそばが有名ですので、一度食べてみたかったへぎそばを頂くことにしました。

場所は、この辺りでは、かなり有名らしい、小島総本店にて頂きました。

へぎそば
へぎそば

11時半ぐらいから、1時間待ちでしたねぇ。。

有名店なので、開店待ちでないと、並ぶことになって、厳しいですね。まぁ、仕方ないです。

待つ間、日よけのテントが出ていたりしていて、お客さんに対する心配りが効いていて、こういったことができる所は、恐らく安心して頂けるに違いないと、期待を高めて臨みます。

さて、店に入り順番が来たので、席に案内されてメニューを眺めていると、やっぱり、へぎそばですね。うん。天ぷら付のヤツにしました。

味のほうは、ツルっ、シコっとして蕎麦とはかなりちがう感じですね。面白いです。

美味しいですよね。これは面白いです。また、食べてみたいなぁ。と感じるものでした。

そして、あと一つ頼んだのが、こちらの方で頂ける「栃尾揚げ」美味しかったです。

こちらの栃尾揚げは、また、凄く大きくて、もう、二人で食べるのは大変で、お腹いっぱいでした。

栃尾揚げ

地元の味の特産品というか、名産品はどこにいっても美味しいなぁ。と感じます。

日本はホント美味しいものいっぱいあると思いますよね。

色んなものを頂いてみたいものです。

食事の後は、「津南ひまわり広場」のひまわりを見てきました。

これも有名らしく、行ってみるとかなりの人で、駐車場に入るのに交通整理をしている状況で、10分程待たされてから入る感じでしたね。

それでも会場のひまわりは素晴らしかったですよ。入場料は300円とリーズナブルな価格になっています。

行って来た時に、撮った写真の中で、気に入った写真をいくつか紹介したいと思います。

ハートのひまわり

書いてある通りですが、ハートの形に見えるひまわりだと思ってます。

撮る時に気が付いていて、狙って撮ってます。

これが一番気に入ってますねぇ。

どれも夏らしくて、好きです。

二番目の写真が何故かグーグルのアイコンになってます。

しかし、夏らしくていいですねぇ。

自分でもかなり気に入っています。

真夏の新潟を巡る旅 二日目 大井田城

高龗神社から、さて、次にどこ行こうかと、また、調べると、大井田城という所がそばにあります。

十日町市博物館を見学した際に見た、大井田城のジオラマがあったのを思い出しましたので、城好きの自分は実際に行ってみました。

ジオラマはこれです。

大井田城は良く整備されていて、大変、見やすかったです。

縄張図はこんな感じです。

先ほどの高龗神社を創建した、大井田氏のお城ですね。

大井田氏は、上野の新田氏がこちらに土着して、大井田氏となったとのこと。

新田氏なので、新田義貞公が旗揚げの際には、もちろん真っ先に馳せ参じ、鎌倉幕府、倒幕に功績があったと言われています。

大手口から本丸を望む

なので、当然ながら、南朝方として、各地を転戦したいたようです。

なかなかに素晴らしい方ですよ。侮れません。

西側を望む

お城の感じは、ジオラマの写真を参考にしてもらうと分かりやすいです。

南側は山頂から続く尾根は細く、そこをさらに堀切を2段にしていてまず攻めては来れないです。

最下部の郭から東方向を望む

東側の斜面も急すぎて崖となっていて、こちらも手を施す必要は無しです。

攻め口は、北に広がって郭が展開していますので、北と西側になるわけですが、西側も攻め口となる所には、竪堀がいくつも連続で連なり、畝型阻塞(うねがたそさい)を成しています。

畝型阻塞とは、畝状竪堀とも言ったりして、まだ、ちょっと定まった言い方に収まっていないですね。

本丸からの北東方面

なので、ほぼ北側からの攻め口になりますが、こちらにぐるっと巡る空堀が無いですね。

北側に2重に空堀があれば、かなり強くなったように思います。

西側、十日町方面、畝型阻塞は良く見えませんでした。

とはいえ、ここにはそれほどの重要性が無かったのでしょうね。

眺望が良く、信濃川が良く見えますねぇ。

おそらく、信濃川の見張り場所として、かなり立地が良かったのだろうと思います。栄枯盛衰、時の流れを感じますねぇ。。

真夏の新潟を巡る旅 二日目 高龗神社

笹山遺跡に立ち寄った際に、さて、次はどこいこうかと、地元の観光マップを見ていると近くに高龗神社という所が、すぐそばにあります。

高龗神社(こうりゅうじんじゃ、りゅうは雨かんむりに龍です。)

有名な神社ではないですが、すぐそこですし、行って見ましょう。

創建は元弘三年(1333年)とのこと。

大井田氏が鎌倉攻めの際に、稲村ケ崎において海竜王の加護を得、鎌倉幕府を滅ぼすことができたことにより、海竜王を祀ったことが始まりと書いてあります。

そして、雨乞いをすれば、必ず雨が降ると言われ、地元でも厚い信仰を集めているとされています。

鳥居をくぐった途端、素晴らしい程、パワーを強く感じます。

清廉な感じのパワーでホントに龍神様でもいるのではないかな?と思うスポットです。

村社的な小さな神社で、こんなにもパワーを感じたのは初めてかもしれません。

神主さんもいない神社ですが、境内も綺麗になっています。

日頃から地元の方に愛される良い神社なんでしょう。

そのためかきっと、神様の龍神様も喜んでおいでなのだろうと思います。

この日はたまたま、越後妻有の大地の芸術祭の芸術作品が展示されている場所でもありました。

そのために芸術作品を見たいわけでもなかったのですが、入場料を払うことになりました。

とはいえ、見てみれば、良いものが見れたように思います。

作品と神社の雰囲気とが、合っているように思えて、素敵でしたよ。

なんとなく、呼ばれたような感じで、何気なく伺った神社でしたが、かなり良い神社でした。

御朱印が頂けないのが、非常に残念に思った次第です。

また、気になるので、近くに行ったら、必ず、立ち寄ってみたいと思える場所です。

凄く短いですが動画もありますので、上げておきます。

真夏の新潟を巡る旅 二日目 十日町市博物館

2018年8月4日に行ったお話です。

夏の長期連休にあたって、どこ行こうかという話で、また東北に行くか、それとも南下して別な所へ行くかどうしようか。

という話なのですが、「じゃ、予行演習で今、南のほうへ行けるか試してみよう。」ということで、真夏の新潟で車中泊してみることになりました。

前日の8月3日金曜日に仕事が終わってから、行ける所まで行こう。

ということで、金曜日から移動しています。

真夏での車中泊なのでできれば涼しい所で寝たいという思いから、標高600m程ある谷川岳PAで寝ました。

100mで0.6~0.8℃ほど気温が下がるらしいですので、3.6℃~4.8℃程度は下がっていることになります。

なので、熊谷が30℃の熱帯夜だとしても、25℃以下ぐらいにはなるのだと思い谷川岳PAで寝た訳です。

ですが、うるさい所です。

SA・PAはトラックがアイドリングしたまま休憩しているので、離れた所で休んだのですがダメでした。

何かというと走行音です。

夏場なので窓を網戸にして開けて寝ているので、ダイレクトに音が入って来ます。

とはいえ、全く寝れないと言うほどでは無かったので、所々で起きたという所です。

翌朝は7時半には起きて移動し、湯沢ICで降りました。

そのすぐそばにあるファミリーマートの中で、朝ごはんを頂いていると、地域の観光スポットマップがあり、それを見ていると、十日町市博物館が目に入ります。

「おぉ、そうだ火焔型土器を見に行こう。」となり、早々に食事を済ませて向かいます。

はい、そうです。

この時点で、どこに何を見に行くかを、全く考えていなかったのですよね。

ただ、以前から戦国時代だけでなく、縄文時代や弥生時代とかの歴史に関わるものは好きなので、何かあれば見ておきたいと思っていましたので、新潟に来たのもこれが縁なのでしょうね。

そして、今年2018の夏のテーマは「縄文時代」と勝手に思っていたもので、まさしくそのテーマに沿っているので、迷うことなく向かいました。

なので、そのおさらいを綴って行きたいと思います。

湯沢のファミリーマートから、約1時間ほどで、目的地の十日町市博物館に到着しました。

ここは、縄文時代の火焔型土器でかなり有名な所です。早速、入って見ましょう。

入場料は300円と格安です。

十日町市博物館の火焔式土器 これは国宝のヤツ
十日町市博物館の火焔式土器 これは国宝のヤツ

何と言っても、火焔型土器は新潟県十日町が一番有名です。

十日町市博物館の火焔式土器の数に圧倒されます
十日町市博物館の火焔式土器の数に圧倒されます

収蔵品の量が凄いです。ホントにたくさんありますよ。

土器だけにドキドキしますよね。

なんてつまらないことを言って見たりしたくなるほど興奮してます。

土偶も少しありました。

十日町市博物館の土偶
十日町市博物館の土偶

少し、自分が気に入った火焔型土器を載せておきます。

これは小ぶりでカワイイですが、綺麗で好きです。

これはなんか尖った感じが素敵ですね。

こっちは丸みがいい感じだと思います。

これは平たい感じが面白いですね。

蓋ですら縄文土器っぽいのが凄いですね。

国宝のやつはこれです。↓

国宝 火焔式土器
国宝 火焔式土器

最初の写真が実は国宝のアップの写真でした。

他にも国宝があるのですが、国立博物館で縄文展をやっているため貸出しているそうです。

火焔型土器の各部分の名称の写真がありましたので載せておきますね。

鶏頭冠把手、たしかに鶏の頭だと思います。

把手といっても、実際持ったら折れそうな気がしますが。。

火焔型土器の部分名称図
火焔型土器の部分名称図

信濃川流域は火焔型土器が最も盛んだったところです。

凄いデザインだなぁ。と思います。カッコイイですよね。

十日町市博物館の場所を出して置きます。

で、この国宝が発掘された場所が笹山遺跡と言いまして、十日町市博物館から車ですぐのところにありますので、行ってきました。

十日町市の笹山遺跡
十日町市の笹山遺跡

縄文時代と言えば、おなじみの竪穴式住居ですね。

十日町市の笹山遺跡
十日町市の笹山遺跡

もちろん中も見学できましたよ。

十日町市の笹山遺跡
十日町市の笹山遺跡

この下の縄文の神様は右が男性の神様、左が女性の神様と言うことらしいです。

十日町市の笹山遺跡にある神様
十日町市の笹山遺跡にある神様

男性はおそらく男根てことでしょうかね。

女性はなんでしょうね?女性の妊娠時の丸さでしょうか?

シンプルなものに価値がある。ということでしょうかね。

きれいな形をしているものを、見出して崇拝したのでしょうかね。

博物館はホント、収蔵品が多いので、飽きずに見ていられます。

ご興味のある方は是非行ってみてください。

東海を巡る真冬の旅 七日目 大井川 塩郷の吊橋

諏訪原城の見学が終わり、お腹が空きました。

検索すると、近くにパスタ屋さんがあるので行って見ましょう。

お店はは諏訪原城のそばにあるルイジアナママ金谷店でパスタを頂きました。

ルイジアナママ金谷店 ニンニクとベーコンの悪魔風
ルイジアナママ金谷店 ニンニクとベーコンの悪魔風
ルイジアナママ金谷店 スウィートバジルのペペロンチーノ
ルイジアナママ金谷店 スウィートバジルのペペロンチーノ

パスタ、美味しかったです。

ルイジアナママ金谷店 お店からの眺めが最高でした。
ルイジアナママ金谷店 お店からの眺めが最高でした。

ここは眺めも良いし、食事もスイーツも旨そうでしたので、混むようですね。

サラダはサラダバーになっていて食べ放題でしたが、寄る年波には勝てず大して食べれませんでした。ハイ。

駐車場がちょっと狭いのが難点ですね。

お腹も一杯になり、さて、山並みの中を大井川が勇壮に流れています。

大井川が綺麗なので、上流に上って行ってみましょう。

大井川と大井川鉄道の素晴しい眺め
大井川と大井川鉄道の素晴しい眺め

まぁ、城ポチゲームの都合で大井川をさかのぼらないとならないのでもあります。

大井川鉄道と並行して走って行きますよ。

大井川と大井川鉄道の素晴しい眺め
大井川と大井川鉄道の素晴しい眺め

SLが見れたりすると嬉しいですが。

川幅はたっぷりですね。いい眺めです。

しばらく上流へ遡って行くと吊橋があったので渡って見ましょう。

大井川の塩郷吊橋
大井川の塩郷吊橋

おや、ちょうど、どなたか来られたので、待っていましょう。

大井川の塩郷吊橋
大井川の塩郷吊橋

一人だけしか通れない幅なので、お互いに譲り合いながら渡りましょう。

ん~、しかし、ホント、いい眺めです。

大井川の塩郷吊橋からの眺め
大井川の塩郷吊橋からの眺め

塩郷の吊橋というところです。

大井川は吊橋の多いところですね。いっぱいあるようです。

大井川の塩郷吊橋からの眺め
大井川の塩郷吊橋からの眺め

ちなみに吊橋の下はこうなってます。

渡っている時もそうですが、かなりなシースルーですし、揺れます。

背面から見る大井川の塩郷吊橋
背面から見る大井川の塩郷吊橋

うちの嫁はビビッてしまって半分でUターンでした。

半分行けば、渡ったのと同じだと思うのですけどね。まぁ、仕方ない。

とりあえず、年末年始の旅行はこれにて終了です。

東海を巡る真冬の旅 七日目 島田市 諏訪原城

さて、お城ばかり見てますが、本日最後もお城です。

お城は丸馬出が有名な諏訪原城です。

諏訪原城縄張り図
諏訪原城縄張り図

ここも前回、高天神城を訪れた際に一緒に見学しましたので、今回で2回目です。

諏訪原城の丸馬出
諏訪原城の丸馬出

ここは丸馬出が凄い規模で作られていて武田流築城術の後半期の代表例だと思います。

丸馬出が最近は武田が作ったものか?どうか?という話も出てきているようです。

丸馬出の規模が大きいものは徳川が作ったのでは?とも言われてきているようです。

武田の城の作り方から学び改良したということでしょうかね。

こちらも諏訪原城の丸馬出
こちらも諏訪原城の丸馬出

丸馬出の極め付きは新府城でしょうか、新府城もかなりな城です。

完成してしっかりと籠城したならかなりなものだったのではないかと思い悔やまれる所ではあります。

諏訪原城から東の島田駅方向を眺める
諏訪原城から東の島田駅方向を眺める

武田流築城術は山本勘助から馬場信春そして真田昌幸、そして幸村へ引き継がれていったわけですね。

国土地理院の地図で見てみましょう。

国土地理院の地図から諏訪原城を見てみる
国土地理院の地図から諏訪原城を見てみる

丸馬出がはっきりわかります。

ここは昔の東海道を確保するために築城したのですが、東、北からの攻撃には斜面がキツク防御が強いと思いますので逃げ道として確保、西、南からの攻撃には丸馬出で凌ぐという考えのようです。

ここを築城してから、高天神城を陥落させています。

そして、ここ諏訪原城と高天神城とのラインが強くなり、二俣城とのラインを強くしたかったでしょうね。

しかし、なんで、西から攻めて来る方向を弱くしたんでしょうね。

自分がこの辺りに築城するなら、もうちょっと西北(左斜め上)のくびれた部分に、堀切を付ければもっと堅固な城ができたのではないでしょうか?

水が出なかったのでしょうかね?

ちょっとわかりません。

東海道を見下ろす感じにした方が良いように思いますが。

その際には馬出はできなそうですけど、左右に馬を出せるようにしておけば良いように思います。

東海を巡る真冬の旅 七日目 掛川市 横須賀城

高天神城を後にして、次は高天神城攻略の徳川の起点となった横須賀城です。

掛川市 横須賀城 縄張り図
掛川市 横須賀城 縄張り図

めずらしい丸い石垣が特徴です。

掛川市 横須賀城 西の丸からの眺め 丸石垣が見えますね
掛川市 横須賀城 西の丸からの眺め 丸石垣が見えますね

天気が良いので、良い写真が撮れたように思います。

掛川市 横須賀城 西の丸の土塁の感じ
掛川市 横須賀城 西の丸の土塁の感じ

石垣がデコボコして取り付きやすいので、小さい女の子の兄弟がよじ登っていました。

掛川市 横須賀城 本丸の感じ
掛川市 横須賀城 本丸の感じ

年のころは上のお姉ちゃんが5・6歳で、下の子は3・4歳くらいでしょうか。

掛川市 横須賀城 本丸天守台跡
掛川市 横須賀城 本丸天守台跡

「お、危ないなぁ。。」と思ってみると、そばで母親が見守ってました。

横須賀城 復元模型 本丸周辺
横須賀城 復元模型 本丸周辺

親が、やらせているような印象だったので、ちょっと違和感を感じましたね。

横須賀城 復元模型 二の丸周辺
横須賀城 復元模型 二の丸周辺

当の子供たちは「キャッキャッ」しながら登っているので、おそらく大丈夫なのでしょう。

横須賀城 北の丸方向
横須賀城 北の丸方向

見てるこっちが一番「ハラハラ」してます。

横須賀城の丸石垣
横須賀城の丸石垣

しかし、小さい女の子が登れてしまう石垣って防御力としてどうなんでしょうか。。。

横須賀城 北の丸から本丸方向
横須賀城 北の丸から本丸方向

横須賀城の攻防戦というのは無かったので、石垣を登られることは無かったのでしょうし、よじ登って来るのを眺めていることはないので、まぁ、討取られてしまうのだろうとは思いますが。。。

横須賀城 本丸を下から眺める 丸石垣が分かる
横須賀城 本丸を下から眺める 丸石垣が分かる

鳥取城の石垣も面白かったですが、ここも面白いですね。

最後の写真の女の子達が件の子たちですね。

奥の青い服が違和感を感じたお母さんです。

けがの無いように気を付けてくださいね。

見ている自分達のほうがヒヤヒヤして心配ですので。

国土地理院の地図で見てみましょう。

国土地理院の地図から横須賀城を見てみる 
国土地理院の地図から横須賀城を見てみる

高天神城との距離関係はこんな感じでさすがに近いですね。

国土地理院の地図から横須賀城と高天神城の距離感
国土地理院の地図から横須賀城と高天神城の距離感

結論としては縄張りから想像するに結構、攻めにくい感じのお城ですね。

しかし、この国土地理院の地図、綺麗に波による浸食が分かる地形ですね。

その約400年前は海際だったというのが良く分かります。

東海を巡る真冬の旅 七日目 掛川市 高天神城

最終日の1番目は高天神城です。

高天神城縄張り図
高天神城縄張り図 想像図とありますが縄張り図ですよね。

ここを訪れるのは2回目です。

高天神城周辺図
高天神城周辺図

なので、前回は北側から登りましたので、今回は南側から登りました。

途中からの眺め
途中からの眺め、北を眺めていると思います。

武田派を名乗る私としては何度も訪れる場所となるかも知れませんね。

高天神城本丸
高天神城本丸

ここを制するものは遠江を制すると言われた城です。

大河内政局石窟
大河内政局石窟

そしてここが落城する際に救援しなかったことが武田の滅亡を決定的にした因縁の城です。

高天神城徳川方攻城時の攻略図
高天神城徳川方攻城時の攻略図

武田は高天神城を落とすために諏訪原城を造り、徳川は横須賀城を造ったわけです。

高天神城 かな井戸
高天神城 かな井戸

徳川は横須賀城だけではなく、付け城作戦で高天神城の周りをびっしりと城砦で取り巻いたわけですね。

その際の軍資金は信長が出したと言われています。

それは信長が動けない状態だったので、お金だけ家康に渡した訳ですね。

高天神城 堀切
高天神城 堂の尾曲輪へ行く途中の堀切

武田は付け城作戦に、抗うことができず、高天神城を見捨てることになりました。

高天神城堂の尾曲輪土塁と空堀
こちらが高天神城で唯一の弱点である堂の尾曲輪、そして、それを補強した土塁と空堀です。

無念なことだったと思います。

三ケ月井戸の金魚
三ケ月井戸の金魚

三ケ月井戸の金魚は不思議と元気にいますね。

高天神城から海方向
高天神城から海方向

前回もみたけど意外に生きていけるのですね。

高天神城の犬戻り猿戻り
高天神城の犬戻り猿戻り

しかし、上の写真の道を馬で降りていったとは凄いもんです。

ここ、ホント、人ひとりしか通れないです。

木が生えてるからまだ、いいですが、伐採されていたら、物凄く怖いと思います。

さて、国土地理院の地図で見てみましょう。

国土地理院の地図
国土地理院から高天神城の地図

H状の地形であることが良くわかります。

この地形であることが、難攻不落にしています。

敵はHのへこんだところから攻めると三方から攻められて殲滅されてしまいます。

なので南と北から攻めるのは無理なんです。

東は急峻な崖でこれも無理

西側北斜面がかろうじて攻めやすいので、武田氏もそこから攻めています。

奪取後はその部分の補強工事を大幅にしています。

高天神城と横須賀城の距離感
高天神城と横須賀城の距離感

高天神城攻略のため築かれた横須賀城との関係をみるとホント近いことがわかります。

東海を巡る真冬の旅 六日目 道の駅風のマルシェ御前崎

さて、六日目の宿泊先です。

御前崎灯台からの眺めです
この写真は以前行った時の、御前崎灯台からの眺めです

また、考えましたが、新しく御前崎に出来た道の駅「風のマルシェ御前崎」にしました。

ここはホント新しい道の駅です。

施設も綺麗で大変使いやすいです。

水耕栽培かな?トマトを水で育ててました。

一つの苗木でかなりな大きさに育ちますね。関心しました。

睡眠に関しては、車をちょっと道路から奥まったところに停められるスペースがあり、そこが静かで良かったです。

ただ、場所柄、車が揺れるまでは行かないですが、風が強いと感じましたね。

冬場は風が強いと思った方が良さそうです。

東海を巡る真冬の旅 六日目 浜松市 浜松城

浜松城はちょっと変わっていて、下の写真を見てもらうと分かるのですが、基礎部分の石垣より天守閣が一回り小さく、余っているという、珍しい所です。

浜松城
浜松城 石垣に対して天守が小さいのが良く分かる

出世城とか言われていますが、自分的には、相当痛い目を見た城だと思います。

浜松城の大まかな縄張り
浜松城の大まかな縄張り

やっぱり、武田信玄公による三河侵攻作戦で滅多打ちでしたからね。

浜松城縄張り図
浜松城縄張り図

城自体は攻められなかったですが、この時の家康は大打撃でしたよね。

野面積の目立つ浜松城
野面積の目立つ浜松城

三方が原の戦いの勝ちに乗じて、続けて浜松城を攻めていたら、確実に落城し、挙句家康討ち死に。ということもあり得たわけですね。

なので、もしかしたら、家康の時代は来なかったのかもしれません。

浜松城天守門
浜松城天守門

この点が武田派の自分には何とも悔やまれますね。

浜松城と天守門
浜松城と天守門

しかし、面白い縄張りですね。

現在残っている縄張りと家康在城の頃ではかなり違うのだと思いますが、おそらく本丸の位置までは変わっていないと思います。

珍しいことに、天守閣の下の石垣の所に井戸があります。

浜松城天守の井戸
浜松城天守の井戸 パッと見お風呂にも見えますね。ww

あまり、見かけないですよね。

こうして、井戸があるとかなり便利ではありますが、自分が色々見た中では、すぐ思い出すのは松江城くらいしか無かったように思います。

野面積が見事
野面積が見事

しかし、石垣がいい感じですねぇ。

野面積みの荒い感じが自分は好きです。

天守郭南側
天守郭南側

国土地理院の地図で見てみましょう。

国土地理院の地形図
国土地理院の地形図

東からの守りが強いように造られていますよね。

まず、天竜川で食い止めて、さらに馬込川でも頑張ってから、籠城というイメージだったのだと思います。

常に武田を意識していることになりますね。

東海を巡る真冬の旅 六日目 静岡県 浜名湖

浜名湖です。

浜名湖を西方向を望む
浜名湖を西方向を望む

この日は風が強かったですが、眺めは良かったです。

浜名湖を西方向を望む
浜名湖を西方向を望む

ロープウェーに乗ろうかと思ったのですが、混んでいるのと割と高いので、諦めました。

浜名湖を西方向を望む
浜名湖を西方向を望む

でも湖岸からでも結構いい眺めです。

浜名湖
浜名湖

浜名湖は日本で10番目の大きさとのことです。

浜名湖
浜名湖

意外と順位が低いですね。

浜名湖
浜名湖

もっと順位が上かと思ってました。

浜名湖
浜名湖

とは言え、高い所を諦めた訳ではなく、浜名湖ガーデンパークの展望塔に登りました。

浜名湖ガーデンパークの展望塔
浜名湖ガーデンパークの展望塔

元々は淡水湖だったのですが、1498年の大地震と高潮により、砂州が決壊し外海と通じ、汽水湖となりました。とあります。

浜名湖ガーデンパークの展望塔
浜名湖ガーデンパークの展望塔

汽水湖は海水と淡水が混じり栄養素が高いため、魚介類が非常に豊富で、全国一の生物が生息しているとのこと。

浜名湖ガーデンパークの展望塔
浜名湖ガーデンパークの展望塔

良い環境なので、生態系も素晴らしいということですね。

浜名湖ガーデンパークの展望塔
浜名湖ガーデンパークの展望塔

だから、鰻も良く育つということですかね。

浜名湖ガーデンパークの展望塔
浜名湖ガーデンパークの展望塔

下の写真、良く見ると2017年の干支である、鶏が親子で描かれていますね。

浜名湖ガーデンパークの展望塔
浜名湖ガーデンパークの展望塔

いい眺めです。やっぱ高い所からの眺めは最高です。

東海を巡る真冬の旅 六日目 新城市 長篠城

続いて長篠城です。ここが早く落とせていたらまた、その後の設楽原の合戦は展開が違ったものになっていたかも知れませんね。

長篠城縄張り図
長篠城縄張り図

正に武田家にとっての運命の分かれ道。

写真にある通りこの時点で武田は最大版図となっています。かなりな勢力です。

長篠城攻城時の武田版図
長篠城攻城時の武田版図

ここでの勝頼公の大きな選択が、その後の衰退へ導かれて滅亡となりました。

左側二の丸と右側本丸を宇連川方向へ臨む
左側二の丸と右側本丸を宇連川方向へ望む

自分が思うに決して武田勝頼公は愚鈍な人では無かったと思います。

自分が思うのは財力とカリスマ(斬新的な知力を含めた)の差ではないかと思います。

左側本丸で右側二の丸
左側本丸で右側二の丸資料館方向を臨む

この兜が物語るように、鉄砲を最大限に生かす戦法への転換点となったことが大きいです。

赤い槍が有名な長坂血槍九郎の槍
赤い槍が有名な長坂血槍九郎の槍

織田はこれまでの間に、大阪本願寺との戦で、雑賀との戦で鉄砲を用いた戦を嫌というほど負けながら実感していることが大きいです。

兜に鉄砲の弾痕
兜に鉄砲の弾痕

その負け戦から学んだ鉄砲活用法をさらに進化させて、上手く野戦に用いたというところが信長の凄さですよね。

長篠城址の碑
長篠城址の碑

負けても死ななければ良い、そしてまた戦して、また負けて、段々と戦が上手くなっていく、そういう判断力ってなかなかできないものです。

本丸から真中左の資料館を臨む
本丸から真中左の資料館を臨む

逆に武田はこの時点で信玄公の行った戦のやり方からはあまり進歩していないのですよね。

攻城側の武田軍の陣に関して
攻城側の武田軍の陣に関して

この辺りの差が非常に大きかったのだろうと思います。

本丸先にある川の合流点に近い野牛郭
本丸先にある川の合流点に近い野牛郭

しかし、遺言通りに上杉謙信公と和睦していればなぁ。。この戦自体勝っただろうと思います。

長篠城周辺の史跡マップ
長篠城周辺の史跡マップ

しかし、ホント要害の地ですよね。

長篠城、500人で守ったのだからなぁ。。

まぁ、確かにあまり大きい城ではないです。

国土地理院の地図で見てみましょう。

地続きの北側しか攻めるところが無いですよね。

なので、こちらに水堀、空堀が巻いているのが分かるかと思います。

攻めにくい城だったことが良くわかりますよね。

合戦場との位置関係はこんな感じです。

東海を巡る真冬の旅 六日目 新城市 設楽原合戦場

さて、私にとっては念願の設楽が原・長篠城です。

設楽原合戦場の馬防柵
設楽原合戦場の馬防柵

ちょっと写真が遠いですが、馬防柵を再現してあります。

設楽原歴史資料館にまずいってみました。

井上靖氏 風と雲と砦からの一文
井上靖氏 風と雲と砦からの一文

武田派の私にとって、辛い場所ですが、見ておきたい場所でもあります。

井上靖氏 風と雲と砦からの一文
井上靖氏 風と雲と砦からの一文

泣かせる言葉があります。

もし、井上靖氏の本に興味がある方はこちら。私も読みました。

設楽原歴史資料館は鉄砲の資料館です。

火縄銃
火縄銃や大筒などが並ぶ

こんな大筒や馬上筒なんかも見れます。

馬上筒
馬上筒

信玄公を狙撃したとも言われる銃もあったりします。(真偽は不明です。)

信玄公狙撃の銃
信玄公狙撃の銃、真偽不明

武田勝頼公、馬場信房公、山県昌景公、内藤昌豊公、真田信綱公・昌輝公もこの風景を見たのか。。

なぜ、武田勝頼公は無謀な突進をしたのか。。

色々と後悔ばかりの場所ですね。

ちょっと、色々な想いが馳せます。

設楽原合戦場を臨む
設楽原合戦場を臨む

この戦地で亡くなった武将の墓を参ろうと思っていたのですが、時間無く、次回に持ち越したいと思います。

東海を巡る真冬の旅 六日目 豊橋市 吉田城

さて6日目となりました。吉田城に参りました。伊勢から徐々に埼玉に向かって帰っているわけですが、本日の予定は吉田城、設楽が原の合戦地、長篠城、浜名湖、浜松城を巡る予定です。

吉田城本丸にある鉄櫓
吉田城本丸にある鉄櫓

吉田城は、まだ遺構が割と残っているので、寄って見たかった所です。

再建された模擬天守閣があります。ですが、本丸のすぐ後ろは豊川です。

吉田城本丸北側を流れる豊川
吉田城本丸北側を流れる豊川

川幅はかなりあり、簡単には攻めることは出来ないですが、本丸がむき出しなのはどうかなぁ。。と言う点と、

豊川の流れの影響をもろに受けるので、浸食が激しいのではないかなと思います。

ただ、海に近いので流れが穏やかなので、さほど浸食も無いのかもしれません。

上野の厩橋城や広島城のように次第に川の浸食で城が壊れるということはないようです。

こういった、縄張りを後堅固の縄張りと言うようですが、ちょっとどうかなぁ。。って思いますよね。

後堅固と言われる吉田城の縄張り
後堅固と言われる吉田城の縄張り

この縄張り図からすると、川を境にして三方向の東と南と西に防御が厚いので、そちらに敵を想定して作っているわけですね。

築城当時(1505年頃)は、今川氏親の命によって、牧野氏が安祥城の松平長親の東三河進出を警戒、尚且つ、渥美郡全域で力を奮っていた戸田宗光をも警戒して築城したといわれています。

現在の縄張りと築城当時の縄張りはかなり違うのではないかと思いますが、立地条件からする感じでは思いっきり戸田氏を警戒しているのではないかと思いますね。

実際、牧野氏と戸田氏と松平氏で奪い合いになり、双方で代わるがわる城主になっています。

う~ん。なかなか壮絶な場所ですね。

この時代、この辺りは、今川氏、松平氏、織田氏でかなり抗争していますよね。

吉田城本丸を東側から、奥に鉄櫓が見える
吉田城本丸を東側から、奥に鉄櫓が見える

節目はやはり家康が独立してからでしょうかね。

家康が桶狭間の戦い以後、独立してまず岡崎城を本城として活動を開始します。

その後すぐ清洲同盟にて織田氏と同盟、後ろが楽になったので、東方向へ進出していきます。

そのとき徳川四天王の一人、酒井忠次へこの吉田城を預けます。

吉田城の堀(土塁)
吉田城の堀(土塁)、道が本来は堀だった所

岡崎城は石川数正が城代。

そしてその後の今川氏真の動きが緩慢なのでどんどん進出されていき、武田・徳川の同時作戦で今川崩壊となります。

家康は遠江を侵攻し浜松城を築城して本城とする。

その後は武田氏との10年戦争ですね。

特にこの吉田城は、元亀2年(この年なのか論争になってますね。)の春に、武田軍が進出して、吉田城を囲まれる。が、酒井忠次以下の必死な働きによって守り抜いた。

という所が吉田城的には、一番盛り上がるだろう所ではないでしょうか。

吉田城の堀
吉田城の堀、川面に対して台地になっているので、かなり良い所に城がある。

自分的には武田VS徳川十年戦争は、武田勝頼公と徳川家康公、お互い同士苦闘の歴史ですよね。

お互い頑張った感が凄く強いですよね。

本能寺の変後、家康に武田軍団が吸収されていったのも、互いを認め合っていたからなんだろうというのが伝わって来ますよね。

しかし、武田派の自分としては、信玄公がもっと早く飛騨を抑え、美濃へ進出して信長が台頭するのを抑えるという形になっていればなぁ。。と思います。

飛騨の鉱山と美濃の豊穣の地を抑えたら、恐らく継続的に戦が出来たのではないでしょうかね。

しかし、最近の研究では信長包囲網も無かったのではないかとか。

武田信玄公もあまり織田とは戦したくなかったとか。

吉田城鉄櫓の石垣
吉田城鉄櫓の石垣

とはいえ、現在残っている縄張りは池田輝政公時代のものとなるらしく、秀吉の意向がかなり入っているのではないでしょうか。

と言うのは、関東から来るであろう家康を抑えるために、背水の陣(後堅固)の城にしている訳ですしね。

しかし、東三河四郡で十五万二千石になるらしいです。

結構、豊かな土地なんだと思います。

武田信玄公の最大版図で甲斐20万石+信濃30万石+駿河20万石+上野半分20万石+飛騨と越中の一部で10万石+遠江20万石位=トータル120万石ぐらいではなかったでしょうか。

そのくらいだったように言われていますので、やっぱり平地の穀倉地帯と海があり港がないと貿易からの収入が厳しいですよね。

さ、あと、この近くの気になる城は、戸田氏が関わる田原城、二連木城と、松平氏の安祥城などが見どころではないでしょうか。

しかし、色々なお城に行きますが、同じ城は一つも無いので、どこに行ってもたのしめますよね。

土のお城も楽しいし、石垣のお城も楽しい、山城もいいし、平城もまたいいしなぁ。

今回の吉田城は、天守の石垣は野面積みで野面積みが好きな自分にはいい感じです。

武田信玄公と武田勝頼公の本は色々と読みましたが、新田次郎さんの本が読んで見て一番いいように思います。

今回、徳川との闘いを深堀してみたいならば、これがおススメです。

あと、最近では、この本が注目ですね。

元亀2年の信玄の三河侵攻は無かった・・・ということになりそうです。

研究が進むとどんどん話が変わって行きますね。

それはそれで楽しいものです。

東海を巡る真冬の旅 渥美半島 道の駅田原めっくんはうす

恋路ヶ浜・伊良湖岬から少しもどり田原市の道の駅「田原めっくんはうす」にて就寝です。

フードオアシスあつみ田原店の総菜
フードオアシスあつみ田原店の総菜

ここは場所が街中で、歩いて行けば駅まで出れるような場所にあります。

フードオアシスあつみ田原店の総菜
フードオアシスあつみ田原店の総菜

「駅近ってわかっていれば居酒屋に飲みに出かけたんだけどなぁ。。」

フードオアシスあつみ田原店の総菜
フードオアシスあつみ田原店の総菜

なんて思いながら、既に夜食を仕入れてる自分たち。

まぁ、そういったロケーションなので、やっぱり何台かの車は駐車場代わりにしている様子。

代行の車が来たりしてバタバタしてしていたりします。

フードオアシスあつみ田原店の総菜
フードオアシスあつみ田原店の総菜

道の駅でよく見るのは、待ち合わせ場所にしていて片方の車を置いていくこと。

まぁ、いいんですが、不倫の待ち合わせ場所なんだろうなぁ。

という雰囲気の方が見受けられます。

フードオアシスあつみ田原店の総菜
フードオアシスあつみ田原店の総菜

まっ、そんなことはさておき、夜食、安いからって買い過ぎですね。

太りますね。

東海を巡る真冬の旅 渥美半島 恋路ヶ浜・伊良湖岬

パノラマビューの蔵王山展望台に後ろ髪を引かれつつも先に進みます。

恋路ヶ浜を望む
恋路ヶ浜を望む

本日の目的地である恋路ヶ浜・伊良湖岬灯台に到着です。

「ここ伊良湖岬は、

あの「名も知らぬとおき島より、流れよる椰子の実ひとつ」

で知られる島崎藤村の「椰子の実」の詩の発祥の地とのことです。

謂れは、民俗学者の柳田國男がここで遊び、拾った椰子の実の話を一緒に来られなかった島崎藤村にしたところ、それから藤村が想像を逞しくして創作したのが「椰子の実」とされる。

やしの実博物館や椰子の実詩碑もある。

とのこと。

なお、後に椰子の実の詩が現実に起こりうるものなのかどうか、某テレビ局のバラエティ番組で検証してみたところ、南国から流れた椰子の実が、実際に漂着することがあるということが証明されているようです。」

知りませんでした。面白い話が隠れているものです。

柳田国男といえば、遠野物語ですねぇ。

これは凄く面白くておススメです。

この青空文庫の物は、無料なのでさらにおススメです。

恋路ヶ浜
恋路ヶ浜

ここ恋路ヶ浜もまた、素晴らしく綺麗なところです。

太平洋側には「日本の渚百選」、「日本の道100選」、「日本の音風景100選」、「日本の白砂青松100選」に選ばれた恋路ヶ浜という砂浜があります。

着いたのが夕方なので、綺麗な夕景を見れました。

恋路ヶ浜を望む2
恋路ヶ浜を望む

渥美半島の名産は、以下が有名らしいです。

メロン
温暖な渥美半島は、日本屈指のメロン王国なんです。
出荷の最盛期は5月から七月上旬で、いろんなメロンの食べ比べもできるとのことです。

イチゴ
2月から3月はイチゴ狩りのシーズンですね。熟して甘くなったイチゴに出会えます。

菜の花
渥美半島では、いちごと同じ時期に菜の花も咲くのでお勧め時期です。

渥美の大アサリ
正式名称は、ウチムラサキ。かなり大きなあさりで近年、取りにくくなっているそうです。

恋路ヶ浜を望む3
恋路ヶ浜を望む

え~と、それとここは、「恋人の聖地」でもありました。

「恋人の聖地」は眺めの良い所にあるので、どうしても自分の行きたい所と被るのですよね。

[blogcard url=”https://www.seichi.net/”]

アラフィフの自分達には如何なものと思いますが、なぜか全国の「恋人の聖地」に訪れています。

まぁ、そして、およそ「恋人の聖地」は鐘が置いてあるわけですが、ここももれなくありましたので、遠慮なく鳴らさせて頂きました。

自分達の恒例なんで、仕方ないですね。ハイ。

恋路ヶ浜から神島を望む
恋路ヶ浜から神島を望む

ただ、ちょっと風が強かったですね。まぁ、海沿いなので仕方ないですよね。

しかし恋路ヶ浜というネーミングセンスがいいですよね。

恋路ヶ浜の由来は以下になるようです。

恋路ヶ浜という名前の由来昔、道ならぬ恋の為に、都を追われた高貴な男女がおりました。

女は恋路ヶ浜に、男は裏浜に、人目を避けてひっそりと住んでいました。

2人は逢うこともないまま病気になり、お互いの名前を呼びながら死んでいきました。

その女の心は女貝に、男の心はミル貝になったという 伝説が恋路ヶ浜の由来です。

ん~。悲しいお話ですね。

しかし、なぜ、都から追われたなら、一緒に住んでいないのか不思議ではあります。

伊良湖岬灯台
伊良湖岬灯台

上記の名前の由来で書いた恋の伝説があるので訪れる人は多いです。

周りのカップルは、 手を繋いだり、肩を抱き合ったりと全員が素直な気持ちになっています。

これも、伝説が関係しているのか謎につつまれています。

この浜辺から毎年、石垣島からプレートをつけた椰子の実を流してきました。

14年目の2001年8月3日に田原市(旧 渥美半島)の浜辺に椰子の実が 漂着しました。

漂着したことを記念として恋路ヶ浜に来た人々の願いが叶うように 「願いのかなう鍵」を横の駐車場に設置してあります。

「幸せになれますように」など愛のメッセージを書いて、 その願いを想いながら鍵をかけます。

伊良湖岬灯台2
伊良湖岬灯台

恋路ヶ浜の名の歴史は古く江戸時代の1808年(文化5年)には和歌に『春さめにぬれてひろはんいらご崎 恋路ヶ浦の恋わすれ貝』などと歌われており、悲恋の話から名付けられたということ。

伊良湖岬灯台3
伊良湖岬灯台

伊良湖岬灯台は絵になりますねぇ。

恋路ヶ浜を上から望む
恋路ヶ浜を上から望む

いいところです。

恋路ヶ浜の夕景
恋路ヶ浜の夕景

灯台の所で、自転車のロードバイクで旅する高校生位の子たちと、ちょっとお話しました。

いい子たちで、冬休みの旅行らしい話をしてました。

それじゃ、と別れたら、帰り道で出会ったので、追い抜き際に「頑張って~」声を掛けて、お別れしましたっけ。

良い思い出です。

東海を巡る真冬の旅 知多半島 山田海岸 渥美半島 蔵王山展望台

羽豆岬を後にして、渥美半島の伊良湖岬灯台を目指して行きますが、羽豆岬のまだ近くで寄り道です。

知多半島の山田海岸、碧南市方向
知多半島の山田海岸、碧南市方向

潮干狩りの情報を出して置きます。この辺りは潮干狩りで有名な所らしいですね。

[blogcard url=”https://www.aichi-now.jp/spots/detail/87/”]

大人1400円、子供1000円で駐車場は無料とのことです。

さて、自分はいったいいつ潮干狩りをしたものか。。

遠い昔、子供の頃以来していないように思います。

知多半島の山田海岸、渥美半島を望む
知多半島の山田海岸、渥美半島を望む

道具は今もさほど変わっていないようですね。

これは親子のセット

こういう長い柄の物のほうが楽でいいと思いますが、後で使わないのですよねぇ。

毎年使う人はこういうのがいいのでしょうね。

それと、足がサンダルよりもこういったメッシュの靴のほうが安全でいいように思います。

これ、夏の靴に買ってみようかなぁ。蒸れなそうでいいかも。

あと折り畳み式の椅子が欲しいですね。

こういった物のほうが便利かなぁ。いいものがありますね。

服装も考えると日焼けしたくないので、こんな感じがいいのかなぁと思います。

ちょっと久々、潮干狩りしたくなりました。

あさりの酒蒸し、食べたいですねぇ~。

パスタでもいいけど。

知多半島の山田海岸、佐久島方向
知多半島の山田海岸、佐久島方向

さて、潮干狩りで盛り上がりましたが、先に進みましょう。

天気が良ければもっと綺麗だろうにと思いながら、来た時とは反対に知多湾・三河湾を眺めつつ進みます。

知多半島を脱して、渥美半島まで来ました。

渥美半島の伊良湖岬を目指しているわけですが、途中、R259を走っていると眺めの良さそうな展望台らしきものが山にあるのが見えます。

調べると蔵王山と言い、展望台があるようです。

「眺め良さそうだから行こう。」と即決します。

というか、いつもそういった眺めの良い所へは必ず立ち寄ります。

蔵王山展望台からの眺め、伊良湖岬方向
蔵王山展望台からの眺め、伊良湖岬方向

車で走っていると、高い山とかに建築物があると展望台かな?といつも思って見ています。

というのも自分は、岬とか展望台とか大好きなんですよね。

旅に出ているときは、特に見知らぬ土地ですので、どういった所なのか、上からどう見えるのか見てみたいという欲望があります。

地図好きなので、上から眺めて自分の頭の地図とマッチさせるのが好きなんですよね。

なので、飛行機乗ると楽しくて仕方ないです。

蔵王山展望台からの眺め、豊橋方向
蔵王山展望台からの眺め、豊橋方向

偶に嫁の帰省で羽田から福岡行きの飛行機に乗っていると、琵琶湖の上を通るのですが、あの時、琵琶湖って結構、標高が高い所にあるんだなぁ。と感じるんですよね。

地図と同じなんですが、立体感が全然違うじゃないですか。あれが楽しいです。

そして、福井県側の敦賀に非常に近いのに、都合よく山脈があって、うまい具合に収まっているものだなぁ。といつも思うのです。

そういったことはやっぱり2次元ではなく3次元で感じるものなんだろうと思います。

そんな訳で、またいつも通り、高い所からの眺めを見てる訳です。ハイ。

蔵王山展望台からの眺め、蒲郡方向
蔵王山展望台からの眺め、蒲郡方向

意外と下道とは言えすんなり来れたと思っています。

知多半島羽豆岬を10:30頃出て、途中ご飯を食べて、渥美半島の蔵王山に15:00頃到着しました。

展望台からの眺めは思った通り、ホント、素晴らしい眺めですね。

蔵王山展望台からの眺め、東方向
蔵王山展望台からの眺め、東方向

夜景ももちろん綺麗な所みたいですよ。

確かに、最高の夜景が見れそうですね。

天気が良ければ、富士山も見れるそうです。

今回は、ちょっと見れませんでしたが。

そうか、だから、この辺りは、おとなのホテルが多かったのかぁ。

いまさら気がつきました。まぁ、そりゃそうだよね。

いいことです。子孫繁栄、大事です。

蔵王山展望台の日本夜景遺産のHPを載せておきます。

[blogcard url=”http://yakei-isan.jp/spot/detail.php?id=117″]
蔵王山展望台からの眺め、南方向
蔵王山展望台からの眺め、南方向

ここもいい所でした。おススメの眺めスポットです。しかしホント、360°のパノラマですね。

夜景も撮って見たい所ですね。

東海を巡る真冬の旅 知多半島 羽豆岬 水軍の城 羽豆崎城址

道の駅にしお岡ノ山を後にして、バカらしい話ですが、途中まで昨日通った道を戻っています。

行き当たりばったりの旅なので、こういった予想外のこと(当てにしていた道の駅が来た先に無いので、全く別な方向に行って寝た。)が起きると対処が弱いですね。

今、思うと海岸沿いの海水浴場の駐車場あたりに寝てしまっても良かっただろうと思います。

それか夜釣りしている人がいたりする所なんかがいいかもしれませんね。

広い駐車場に1台で止まっているよりも、夜釣りしている人達がいれば安心ですしね。

よし、今度はちょっと頭使って、道の駅が余り無い所なんかではそうしようかと思います。

羽豆岬の案内図
羽豆岬の案内図 駐車場は1時間=100円 安い

半田市から武豊町を抜けて、知多半島の左側というか伊勢湾側を海沿いの道を羽豆岬に向かって走っていきます。

羽豆岬展望台からの眺め1
羽豆岬展望台からの眺め 南方向

ちょっと走りにくい感じの道が所々あります。対面二車線の道路ではありますが、歩道もなく道が狭くペースが遅い道でしたね。

何か有名なのか、美味しそうな物を売っているお店がいくつか目に入りました。

実際、前を走っていた地元ナンバーの方は、そのお店に入っていくので、「あぁ、きっと美味しい物、売ってるんだろうなぁ。」なんて、嫁と話してました。

羽豆岬展望台からの眺め2
羽豆岬展望台からの眺め 北東方向

羽豆岬を観光するには有料の駐車場へ車を止めるのが良いようです。こうこうしている間に、羽豆岬に到着しました。

(一番目の写真を参考にしてくださいね。そこの駐車場に停めました。)

有料駐車場なので、1時間100円でしたよ。

ここからは歩きです。

羽豆岬展望台からの眺め3
羽豆岬展望台からの眺め 南東方向

羽豆神社に展望台があり、そこの眺めが良いです。

羽豆岬展望台からの眺め4
羽豆岬展望台からの眺め 南東方向

晴れていたら、かなり綺麗なんでしょうね。あいにく天気には恵まれませんでしたが、なんとか対岸の伊勢や渥美半島なども見えました。

羽豆崎城址
羽豆崎城址

南北朝時代に、熱田大宮司であった千秋昌能が築城したとのことです。そして、この場所、羽豆崎城址でもあったようです。

そして戦国期は、昨日、訪れた佐治氏のお城とのことです。

羽豆大明神があります。
羽豆大明神があります。

籠れる人数が少ないので、兵糧攻めをされるとちょっと厳しいかもしれません。大きさは砦程度の大きさでしょうかね。

ただ、独立した台地で高さもあるので、我攻めに攻めると痛い目を見そうではあります。

攻め口は南北の先端部分くらいしか無いようです。

よくよく調べると、現在フェリーへ行く道がありますが、北西に宗真寺というお寺さんがあります。

そこも独立した台地ですが、昔はそこと繋がっていたとのこと。

恐らく現在道がある部分は城の堀切だったためかで、拡張して現在の道路とされたのではないでしょうかね。

そして、その宗真寺の所にもお城があったとのことです。

そちらは、羽豆崎天神山城というらしいですね。

こちらは、戸田氏が治めたとのこと、目と鼻の先ですね。

お互いに水野氏と婚姻関係を結び、共同統治としたとのことです。

はぁ、そこに落ち着くまでは、かなり大変でしたろうね。

特に遺構とかは無い感じですが、展望台があり、また、別な眺めができます。

 羽豆岬からの眺め
羽豆岬からの眺め

水軍は船がメインなので、あまり籠城とかしないのかもしれませんね。

水軍のお城は珍しいですが、昨日の波切九鬼城址といい、水軍のお城はちょっと小さい所が多いのでしょうかね。

村上水軍のしまなみ海道にある能島城は良かったですね。あれは凄いです。

流石に島には渡れませんでしたが、対岸の大島からゆっくり見ました。

あそこはおススメです。

あと、ここ、SKE48の皆さんによる「羽豆岬」という歌があるらしいですね。その歌碑がありました。

ついでに、Youtubeのリンクを、一応、貼っておきます。

可愛らしい女の子達が明るく歌う歌はいいですね。

見てるこっちも元気が湧いてくるようで、楽しいですねぇ。

東海を巡る真冬の旅 セントレア空港を望む 道の駅にしお岡ノ山

常滑で「とこにゃん」を見ている間にすっかり、日が傾き掛けてきました。

セントレア空港へ沈む夕日
セントレア空港へ沈む夕日

とりあえずセントレア空港を拝んでおこうということで、向かいます。

セントレア空港へ沈む夕日2
セントレア空港へ沈む夕日2

橋を渡るには有料道路とのこと。

なので、まぁ、そこまでしてみたいわけでもないので、対岸の適当な所から写真を撮りました。

セントレア空港へ沈む夕日3
セントレア空港へ沈む夕日3

ホントは、知多半島の先端まで、行きたかったのですが、とても日のあるうちに間に合いそうもない感じなので、宿泊場所を探します。

今回はちょっと距離がありますが、一旦、「道の駅 デンパーク安城」に向かいます。

知多半島には道の駅が無いので、日のあるうちに観光しておきたかったのですが、仕方ないですね。

自分達は道の駅以外では、まだ、車中泊はしたことないので、今後の課題です。

街で居酒屋とか行きたいですしねぇ。

そういうときはコインパーキングで良いのだろうけど、トイレがそばにないと困るだろうしなぁ。

みんなどうしてるんだろう。

今、こうして、改めて記事を書きながら、知多半島の地図を眺めていると、海水浴場が多いのに気が付きました。

なので、海水浴場の駐車場に停めれば良かったかもしれませんね。

釣りしている人がいる所なら、人がいる訳ですのでね。

「道の駅 デンパーク安城」に着いてみると、なにやらイルミネーションがピカピカしています。

そのため、イルミネーションの見学に来る人も多くて、とても寝るという感じではなく、ここは諦めました。

次の「にしお岡ノ山」という道の駅に向かいます。

ここは国道のバイパスのPA的な道の駅です。

自分、寝るときはエンジンを掛けずに静かに寝たい派です。

そして、周りにもそうあってほしいタイプなのですが。

こういった幹線道路沿いはトラックが多く駐車しているケースが多く、彼らはアイドリングしたまま寝てしまうので、近くだとうるさくて寝れないことが多いのです。

なので、ちょっと騒音が発生して苦手な感じかと思いましたが、トラックから離れて普通車だけで停められるところがありますので、そこへ停めました。

思ったよりも静かで、すぐに睡眠に入れましたが、途中、暴走族的な車が爆音を鳴らせながら、駐車場をわざわざあちこち徘徊していました。

まぁ、嫌がらせですよね。

なんか、気に入らないのか、面白がっているのでしょう。

そういった車は長時間、そういったことをしないので基本放置です。

長い場合は警察に電話するべきでしょうね。

ちなみに、ここの道の駅も割と綺麗で清潔でした。

東海を巡る真冬の旅 知多半島 とこにゃん

常滑に向かっていると、「あ~、そういえば、招き猫のでかいのがいるのよね。この辺だった気がする」と妻。

「調べてみるわ。」といそいそとスマホで検索。

「いたいた、とこにゃんっていうのね。」

妻は猫好きで、猫に関するものには、なんにでも興味があります。

それで知っていたらしく見たかったらしいです。

なので、さっそくそちらに向かいましょう。

車をどこに停めていいものかと、調べてみると、常滑市陶磁器会館に停めて良いとのことです。

駐車させて頂き、歩いて行ってみましょう。

とはいえ、「とこにゃん」のそばに行くには歩きで行くしかありません。

駐車場から、10分ほど歩くと、「とこにゃん」の所に着きました。

常滑のとこニャン、カワイイです。
常滑の「とこにゃん」、カワイイです。

写真だと、大きさのイメージが分かりにくいですが、かなり大きいですよ。

二階屋の屋根位まで達します。

圧倒されます。

でも、良くできていて、カワイイです。

そして、「とこにゃん」の目の前に焼物の猫の置物があり、「とこにゃん」を見つめているのがいいんですよね。

とこなめ招き猫通りを上から眺める
とこなめ招き猫通りを上から眺める

法面の上に猫の焼き物が置いてあったりして、芸が細かいんですよねぇ。

こういった法面の上に「とこにゃん」はいます。

この「とこにゃん」の下に、猫の焼き物が並んで展示してありますので、下に行ってみましょう。

とこなめ招き猫通り
とこなめ招き猫通り

とこなめ招き猫通りと言うらしいですね。

とこなめ招き猫通りの猫オブジェ群
とこなめ招き猫通りの猫オブジェ群に圧倒

非常にたくさん並んでいます。

ちょっと、数えきれない感じです。

調べてみると、常滑ゆかりの陶芸家さんや職人さん、合計39名の方によって作られたそうです。

様々な猫のオブジェが通りを彩ります。

流石に全部は載せきれないので、自分が気に入ったものだけ、載せさせて頂きます。

とこなめ招き猫通りの猫オブジェ晴天祈願
とこなめ招き猫通りの猫オブジェ晴天祈願

自分の一番のお気に入りは上の写真のものです。

「晴天祈願」という題ですね。

この丸くフワッとした感じが好きです。

なんか、こころ休まる感じがいいです。

それと題名が、写真好き、旅行好きなので、晴天でいて欲しいのもあります。

なんとなく、ひだまり猫と言う感じで好きです。

「日向ぼっこ好きニャ~。」って感じでしょうかね。

とこなめ招き猫通りの猫オブジェ武芸上達
とこなめ招き猫通りの猫オブジェ武芸上達

次はこの「武芸上達」が好きですね。

なんか、旅をしていたら、供をしてくれて、刀を差しだしてくれそうなかんじですよね。

「お手伝いするニャ~。」とか言いそうです。カワイイ。

とこなめ招き猫通りの猫オブジェ旅行安全
とこなめ招き猫通りの猫オブジェ旅行安全

この寅さんチックなのは「旅行安全」とのこと。

この猫さんは、「じゃ、また、今度な。」とか、カッコよく言いそうですよね。

とこなめ招き猫通りの猫オブジェ開運招福
とこなめ招き猫通りの猫オブジェ開運招福

これもいい感じ、「開運招福」いいですね。

この子は、「よく来たニャ~。」って感じでしょうかね。

とこなめ招き猫通りの猫オブジェぼけ封じ
とこなめ招き猫通りの猫オブジェぼけ封じ

この子は「ぼけ封じ」とか、う~ん。

題とイメージが、自分には繋がりませんが、このオブジェは好き。

なんとなく、見守っててくれている感じが伝わります。

「ゆっくりしていけニャ~。」って感じでしょうかね。

とこなめ招き猫通りの猫オブジェ心願成就
とこなめ招き猫通りの猫オブジェ心願成就

これなんかめっちゃポップですが、題は「心願成就」

この子は「我を信じるのニャ、さらば幸せ猫パンチをお見舞いして進ぜるニャ。」と言う感じで、ラッキーを授けてくれそうですよね。

確か石川で買ったやつなので、九谷焼なんだと思います。そういえば、自分の実家にも招き猫のデカいのがあります。

それが高さ60cm位あって、彩色が凄くて怖いんですよね。

こんな感じのです。↓でもこれはまだ可愛さがあるなぁ。

子供の時に見て、こんなの招き猫じゃないと思いましたよ。

夜見ると怖くて怖くて、ちょっと嫌でした。

もし自分が九谷焼で買うなら、こんなのがいいですね。

これなんかもいいなぁ。ちょっとあざとい感じかなぁ。

でもとこにゃんなので、常滑焼のこれがいいですよね。良く似てるしね。

あと、こんな変わり種とか。

しかし、何気なくポストの上にも猫の置物があったりと、ホント、猫好きな方にお勧めしたいです。

ポストに乗った猫ポストマン
ポストに乗った猫ポストマン

でも、本物の猫ちゃんには出会わなかったんですよね。残念でした。。

東海を巡る真冬の旅 知多半島 佐治氏の大野城 

神戸城を後にして、さて、お昼ですね。先を急ぐので、簡単に済ませたいところです。久々ですが、四日市の幸楽苑に入って見ました。

ラーメンで簡単に済ませ、車を進めて行き、名古屋市内の渋滞にあまり会うこともなく進むことができました。

名古屋市内を走っていると、皆さんほぼスタッドレスタイヤは履いてませんね。

都市部特有の「雪はそんなに降らない」「自分は事故らない」という根拠のない自信を持つ方が非常に多いですよね。

そういう人に限って、陸橋が凍って滑って事故るという過信からの事故が多いのではないかと思います。

大した額でも無いのだから、保険代わりに買えばいいと思うんですよね。

買わない人の次にいう言葉は決まっていて「履き替えるの面倒」です。

人を轢いてからじゃ遅いんだよなぁ。と思います。

今はオールシーズンタイヤという都市部に降る位の雪なら全然OKというタイヤもあるので、それにすればいいと思います。

最近の物は評価も上がってるので、おススメだと思います。

自分も次はこれにしようと思ってますよ。

同僚がこれ履いていて、「履き替えなくてイイよ」って言ってたので、ちょっと揺らぎますね。

さ、そんなタイヤ談議は置いといて、

国道155号線を南に常滑市方面へ走っていると、

「ん?正面に城が見えるけど、こんなところに城かぁ。まぁ、でも寄ってみますか。」

ということで、行ってみました。

常滑の大野城
常滑の大野城

どこも模擬天守ってあるけど、実際天守なんてなかったところばっかりですよね。

大野城というお城です。全然、知りませんでした。

天守風にしないで櫓にすればいいと思うのですがねぇ。

それでもまだ、ここは櫓風でもあるかな?なので、良い方でしょうかね。

大野城の説明板
大野城の説明板

素晴らしいですね。

むしろ、潔し。

開き直っている所がいいです。

説明板の最後に(*なお、この建物は当時の建物を復元したものではありません。)とあります。

大野城の城門
大野城の城門

佐治氏は室町時代の終わり頃から戦国時代に四代の城主が続いて知多半島一帯に勢力を張っていたと言われています。

大野城址の沿革

ここは4代続いた、佐治氏の城があったところ。古くは宮山城とか大野城と呼ばれていました。

一代と二代は省略、目ぼしい所のみ記載

三代 佐治八郎信方(元亀2年(1571年)5月9日没)

織田信長の妹のお犬の方を嫁に貰う、それに伴い信長の傘下に入るが、伊勢長島の戦いで討ち死に。

四代 佐治与九郎一成(寛永11年(1634年)没)

お市の方と浅井長政の娘で三女の(信長の姪)江を嫁としたが、小牧長久手の戦いで秀吉の勘気を被り離婚、大野城退去後は、伊勢に居り後に京都で病死したと伝えられている。

江のほうは羽柴秀勝へ再嫁するも、文禄の役中に朝鮮国の巨済島において羽柴秀勝が病死してしまう。

その三年後に二代将軍となる徳川秀忠へ嫁ぐことになる。

大野城本丸展望台からの眺め、防御の為、斜面をきつくしている様子が伺える
大野城本丸展望台からの眺め、防御の為、斜面をきつくしている様子が伺える

この中で、まず気になるのは三代の信方公の嫁が信長の妹のお犬の方という所でしょうね。

要するに妹を嫁に出すほど重要だったこと。

お犬の方はお市の方と同じ母親の土田御前から生まれています。

お市の方は絶世の美女と言われていますので、お犬の方もさぞかし綺麗な方だったのではないでしょうかね。

大野城の空堀
大野城の空堀

知多半島を抑えるために美人の妹を送る。したたかなやり方ですね。ハイ。

こういうところは上手いですよね。信長。

大野城本丸展望台からの眺め伊勢湾方向
大野城本丸展望台からの眺め伊勢湾方向

実際に嫁いでいたかは不明とも言われているらしいですが、婚約はしていたのは事実らしいです。そして、次に徳川秀忠の奥方のお江の方が最初に嫁いだ相手ですね。

でも、佐治一成公は不運な方ですね。

しかし、ここ眺めが良く伊勢湾を一望できます。

大野城本丸展望台からの眺め北方向
大野城本丸展望台からの眺め北方向

水軍も有し、伊勢湾を制していたらしいので、結構、佐治氏も全盛期は侮れない勢力だったのでしょうね。

大野城本丸からの眺め
大野城本丸からの眺め

でなければ、お江を嫁にするほど重要だったという裏付けが無いわけですからね。

しかし、なかなかの標高差ですね。いい場所というか良い立地にありますよね。

空掘りもしっかりと残っているし、まずまずのお城ではないでしょうか。

その後の大野城ですが、すぐ廃城になります。

三代の信方が長島一向一揆で戦死したが、嫡子佐治一成が幼少だったので、織田信長の弟織田長益(有楽斎)が知多郡を与えられ、大野城を与えられる。

織田長益は大野城の水利が悪いため嫌い、大草の地に築城を始める。

が、本能寺の変が勃発し、途中放棄で再び荒廃。

小牧・長久手の戦い後、長益が摂津国に移封されたため完成を待たずして廃城となった。

大草城は本丸、二の丸、三の丸を配し、本丸、二の丸の周囲を堀(水堀も)と土塁で囲った梯郭式縄張が良好な状態で残り現在も見ることができる。

江戸時代に入ると、尾張藩は大草城跡を知多郡の防御上重要な地として、家老の山澄淡路守英龍に大草の地(5,000石)を与え城址近くに居を構えて城址の保全をさせ、歴代の山澄氏によって保存された。

現在でも城跡の周辺に東屋敷や西屋敷などの大字が残る。

とのことで、やはり良い場所に城があるということですね。

大野城はちょっと小さいので、大草城と大野城で連携すると面で対処できるので、効果が上がりますよね。

そんなところを見越していたのでしょうかね。

東海を巡る真冬の旅 鈴鹿市 神戸城

さぁ、朝から高山神社の方のご厚意を受け、津城を見学させて頂きました。

ありがたく感謝しながらも、後にして、本日の目的地である知多半島を目指します。

知多半島を目指していますが、途中、神戸城というところがあり、気になります。

「寄ってみよう。」ってことで、見学してきました。

ちょっと、住宅地の中にあるので道が若干狭いのですが、駐車場もあるので問題ないと思います。

神戸城の石垣
神戸城の石垣

神戸(かんべ)城と読みます。

織田信長公の三男である、織田信孝に関わるお城ですね。

自分にとっては、織田信孝はすっかり秀吉に、やられてしまったというイメージでしょうか。

まぁ、秀吉のほうが一段上だったということなんでしょうけど。

仕方ないことですよね。

大体、二代目は甘い人が多いものです。まして、三男ですからね。

とはいえ、信孝は信長からはまだ目を掛けられていたようですね。

神戸城跡の説明板
神戸城跡の説明板

神戸信孝とも言いますが、説明にも軽く書いてあります。

信孝はこの地方の神戸氏に養子に出された訳ですが、和睦とは言いようで、乗っ取りですよね。

この当時の伊勢は滝川一益、織田(神戸)信孝、織田(長野)信包(信長弟、伊勢長野氏養子)、そして翌年頃に北畠氏の家督を継いだ織田信雄(信意)の4人で分割統治されていました。

この時の織田信長の伊勢統治の方法が養子にして乗っ取るというあからさまなやり方でしたね。

反対派は粛清され、残りは取り込まれていった訳です。

最後に信孝は、秀吉から自害を申し渡されて、切腹するわけですが、かなり豪胆な所業にでています。

「信孝は切腹の際、腹をかき切って腸をつかみ出すと、床の間にかかっていた梅の掛け軸に臓物を投げつけたといわれる。」

享年26歳ですから、この年齢で百戦錬磨の秀吉に勝つにはかなりな器量が求められますよね。

賤ケ岳で柴田勝家が負けたのは痛かったですね。

柴田勝家と織田信孝の連携がもっとうまく行っていたなら、秀吉の個別撃破とかさせない状況を作り出せたなら、勝てたのかも知れませんね。

例えば、長浜方面からの圧迫と関ケ原方面からの同時攻撃で、さらに柴田軍の琵琶湖を西から回って秀吉の背後を突くという形で止めが刺せたのではないでしょうか。

面白いのは、三男である神戸信孝のほうが先に養子に出されて領地を貰っている点ですね。

織田信雄よりも評価が高かったのでしょうかね。

実際、信長時代にも信雄は失敗が多かったですし、秀吉時代もかなりやらかしています。

石垣の痛みが目立つ神戸城
石垣の痛みが目立つ神戸城

そんな織田信雄ですが、「のぶかつ」と呼びますが、ウチの嫁は「のぶお」と呼んで私を爆笑させました。

一般的には「のぶお」ですからね。仕方ないかもしれません。

なので、織田信雄の話をするときは「のぶお」と言うだけで、夫婦間では通じるようになっています。

織田信雄は武将としては、イマイチでしたが、血筋は残したのが立派といえば立派ですかね。

織田信雄は上野国甘楽郡の小幡藩を統治していたりしまして、我が住まいの埼玉県北部からも近い所にありますので、何度かいったことがありますので、ちょっと親しみがあります。

神戸城の本丸
神戸城の本丸

伊勢新九郎こと伊勢宗瑞は昔の本では正体不明みたいに書かれていますが、最近の新しい本だと大分分かってきたようですね。

伊勢なので伊勢平氏が説明板に出てきますね。

伊勢新九郎(北条早雲)とも繋がる訳ですが、伊勢新九郎は備中伊勢氏(分家筋)ですね。

斉藤道三と同じですね。

道三は昔は一代で登り詰めたと言われていますが、今は道三の父(いわゆる油売り)と二代掛けて美濃の政権を奪うことに成功したというのが、本当の所のようです。

最近は研究が進んでいるので、昔の著名な人が書いた小説もかなり適当なイメージで勝手に書いていたのだなぁ。

というのがわかります。

本を売る為と本からドラマ、映画へ展開するために話を盛って書いているというのが、大分ありますね。

神戸城南側の堀、湧水源があるのでこちらは水が綺麗
神戸城南側の堀、湧水源があるのでこちらは水が綺麗

現在は公園なので、子供達が大きなけがをしない程度の高さでちょうどいいのかも知れません。

石垣もだいぶ痛んで来ている感じで、今はすっかり寂しい感じの城跡ですね。

写真では分からないですが、今は住宅街の中の公園です。

堀が少し残ってます。

神戸城西側の堀
神戸城西側の堀

昔は、おそらく沼地だったのでしょうかね。水が湧くらしく、それを上手く利用していたのでしょうね。

神戸城跡の碑
神戸城跡の碑

隣にある三重県立神戸高等学校は神戸城の二の丸、三の丸の跡地に建っているようです。

東海を巡る真冬の旅 津市 津城

さて、「道の駅津かわげ」を後にして、1月2日の朝は、津城の見学からスタートしたいと思います。とりあえず、津城に隣接する高山神社を目指しています。

なぜなら、ここは藤堂高虎公を祀っておられて、御朱印が頂けるのですよね。

個人的に武将御朱印帳というものを個人的に集めていまして、武将が祀られている神社に行って御朱印を頂いてくることを目的にしています。

なので、正月二日の朝から高山神社で御朱印を頂きました。

ありがたいことです。

ちなみに、お城を見学したいので、神社の方にこの辺りに駐車場はありませんか?と聞いてみたところ、「あぁ、ここに停めて見学すればいいですよ。」と、おっしゃってくださいまして、ありがたくご厚意甘えることにしました。

ありがとうございました。

さぁ、では、津城を見学してみましょう。

ご厚意に胡坐をかくわけにはいきませんので、足早に見学してしまいましょう。

津城を建てたのは、もちろん藤堂高虎公です。縄張り名人としてかなり有名ですよね。

いろんなお城を建ててます。

津城の藤堂高虎公銅像
津城の藤堂高虎公銅像

関わったとされるお城を載せてみましょう。

ちょっと量が多いので、城名だけにしておきますね。並びは築城順です。

出石城、大和郡山城、京都聚楽第、粉河城、赤木城、伏見城、宇和島城、伊予大洲城、順天倭城、膳所城、甘崎城、今治城、江戸城、津城、伊賀上野城、丹波篠山城、丹波亀山城、二条城、和歌山城、大坂城、淀城

このほかにも高槻城、駿府城、羽柴秀長の和歌山城築城にも関係したとか言う話もあるそうです。

それを含めると23城かぁ。多いですね。

人生のかなりな部分が築城ということですね。

お城以外の建造物も有名なところは、日光東照宮の造営奉行、上野寛永寺の造営、京都南禅寺に三門(楼門)を造営

ん~。凄い。大活躍ですね。

自分が行ったことがある藤堂高虎公のお城は、

大和郡山城、宇和島城、伊予大洲城、今治城、江戸城、津城、伊賀上野城、丹波篠山城、丹波亀山城、二条城、和歌山城、大坂城

の12城ですかね。まぁ、有名な所が多いですから好き嫌いに関わらず見てますよね。

でも、割とどこも好きな城ですねぇ。うん。

津城の西の丸のお堀
津城の西の丸のお堀

藤堂高虎公の縄張りの特徴はシンプルながらも守りやすいをモットーにした城が多いと思います。

丹波篠山城の馬出は見事ですね。

攻撃性を高めるのと、万が一馬出を突破されても桝形と櫓で防御を高めています。

津城の丑寅櫓
津城の丑寅櫓

方形で面積の大きすぎないお城が多く、桝形を用いた門が多用されています。

そしてもっとも特徴的なのが高石垣ですよね。

鉄砲にしろ、弓矢にしろ、打ち下ろすのが圧倒的に有利ですよね。

なので、石垣を高く積むのが特徴です。

しかし、ホント、見事なまでに積むよなぁ。と思います。

あとは、堀の広さでしょう。これも弓や鉄砲の威力を弱める為ですよね。

津城本丸北側のお堀を東から眺める
津城本丸北側のお堀を東から眺める

あと、藤堂高虎公と言えば、主君を七度変えていると言われていますので、追ってみると、

1.浅井長政、2.阿閉政家、3.磯野員昌、4.織田信澄、5.豊臣秀長、6.豊臣秀保、7.豊臣秀吉、8.徳川家康

以降徳川家に仕える。

なので、変更したタイミングが7回ということで、主君は8人違うということです。

あと、身体的特徴が、身長は6尺2寸(約190センチメートル)の大男だったようです。

亡くなった時の高虎公の身体は満身創痍の身体で、弾傷や槍傷で右手の薬指と小指はちぎれ、左足の親指も爪が無く、左手の中指も短く爪は無かったそうです。

とはいえ、当時はかなりの高齢の75歳で高虎公が死去します。

その際に若い近習が遺骸を清めて驚いたと言われているそうです。

凄いですね。気持ちが強い人なんでしょうかね。

津城戌亥櫓跡
津城戌亥櫓跡

非常に逸話の多い人でもあります。

以下に幾つかの逸話を載せて見ます。

その1

高虎公は家臣が暇乞いを願い出る者があると、茶を振る舞ってもてなし、さらに自分の刀を与え、「行く先が思わしく無ければ、いつでも戻ってくるが良いぞ」と別れ、少しも意に介さなかったそうです。

実際、その者が新たな仕官先で失敗して帰参を願い出ると、元の所領を与えて帰参を許したという。

ある時、この高虎の行為に家臣が反発すると

「臣僕を使うのに禄だけでは人は心服しない。禄をもらって当然と思っているからだ。人に情けを掛けねばいけない。そうすれば意気に感じて、命を捨てて恩に報いようとするものだ。情けをもって接しなければ、禄を無駄に捨てているようなものである」

と述べたと伝わる。

その2

戦国時代後半から江戸時代初期、主君が死ぬとその後を慕って殉死する者が絶えなかったが、高虎はこれを厳禁とした。

生きていれば頼りない嫡子の高次を支えてくれる有能な人材を失ってはならない、という強い想いがあった為と思われる。

そこで国元において箱を書院に置き、

「自分が死んだら殉死しようと考えている者はこの箱に姓名を記した札を入れよ」

と命じた。

開けてみると40人余の札があり、続いて駿府屋敷でも同じ命令を出すと30人余が名乗り出た。

高虎は70人余の名を書いて駿府の家康を訪問し、

「私が死んだら殉死を願い出る者がこんなにいます。皆、忠義の者で徳川家の先鋒として子々孫々までお役に立つ者たちです。ですので上意をもって殉死を差し止めて下さい」

と嘆願し、家康も了承した。

高虎は家康の書状を受け取ると70人余を集めて家康の上意であることを伝えた上で、

「殉死を願い出た者は殉死したも同然である。家康公の厳命に背いてはならぬ。殉死は絶対に許さぬ」

と、

「自分の死後は腹を切らずに、切腹したつもりで藤堂・徳川両家のために働くように」

命じた。

この70人の中に1人だけ命令に同意しない者がいた。

彼は合戦で右腕を失っており、生き長らえても役には立たないから自分は殉死させてほしいと願い出た。

しかし高虎は許さず、家康もこれを聞かされて

「藤堂は我が徳川の先鋒。命令に違えて1人でも殉死したら藤堂の先鋒を取り消す」

と厳命したため、その者も生きることに同意したという。

その3

江戸時代を通じて津藩藤堂家の家臣は高虎のある遺訓を座右の銘とした。

それは「寝屋を出るよりその日を死番と心得るべし。かように覚悟極まるゆえに物に動ずることなし。これ本意となすべし」である。

つまり高虎は毎日を今日こそが死ぬ日だとの覚悟を持って生きよと家臣に言い聞かせたのである。

現在、伊勢の津城跡には高虎の騎乗像と共にこの遺訓を記した碑が建っている。

その4

慶長の役において加藤嘉明と功を競いそもそも仲が良くなかったのだが、高虎の領地が今治藩、嘉明のそれが伊予松山藩と隣接していて、境目争いなどがあったようで仲が悪かったと言われる。

そんななかで、以下のような話もある。

陸奥会津藩主の蒲生氏が嗣子無く改易されたとき、徳川秀忠は高虎に東北要衝の地である会津を守護させようとした。

しかし高虎は「私は老齢で遠方の守りなどとてもできませぬ」と辞退した。

秀忠は「では和泉(高虎)は誰がよいと思うか?」と質問すると「伊予の加藤侍従(嘉明)殿です」と答えた。

秀忠は「そちは侍従と不仲だったのではなかったか?」と訊ねた。

当時の嘉明は伊予20万石の領主で、国替えがなれば40万石の太守になり30万石の高虎より上になるためでもある。

しかし高虎は「遺恨は私事でございます。国家の大事に私事など無用。捨てなければなりませぬ」と答えた。

のちにこれを聞いた嘉明は高虎に感謝して和解したという。

実際には、会津藩主にのちの世で賢君の誉高い保科正之公が成る。

その5

講談、浪曲『藤堂高虎、出世の白餅』では、阿閉氏の元を出奔し浪人生活を送っていた若き日の高虎(当時は与右衛門)が空腹のあまり、三河吉田宿(現・豊橋市)の吉田屋という餅屋で三河餅を無銭飲食し、そのことを店主の吉田屋彦兵衛に正直に白状して謝罪した。

だが彦兵衛に「故郷に帰って親孝行するように」と諭され路銀まで与えられる。吉田屋の細君もたまたま近江の出であったという。

後日、大名として出世した高虎が参勤交代の折に立ち寄り、餅代を返したという人情話が伝えられている。

ちなみに高虎の旗指物は「三つ餅」。

白餅は、「城持ち」にひっかけられているともいう。

などなど、他にも家康との逸話がまだまだあります。

ちょっと載せきれないので、この辺にしておきましょう。

津城本丸北側のお堀を西から眺める
津城本丸北側のお堀を西から眺める

なかなか、人間的な魅力に溢れた人だったんだろうと思います。

賢く、タフでしたたかで、人情もある。

ん~欠点があるのか?っていう感じですね。凄い人です。

興味があれば、火坂雅志さんのこちらの本がおススメですよ。

東海を巡る真冬の旅 道の駅津かわげ

素晴らしい眺めの横山展望台を後にして、さてここからは観光しながら帰路に入っていきます。

予定としては、伊勢湾から、知多半島、渥美半島を巡って行く予定です。

「年始なので伊勢神宮周辺からは離れてしまったほうが良いよねぇ。」

との意見の一致をみたので、今日は鳥羽→伊勢→松坂→津のあたりまで行こうかと思います。

途中、伊勢でお風呂に立ち寄ります。

伊勢に「伊勢・船江温泉 みたすの湯」というところが、検索すると出てきました(いわゆるスーパー銭湯)ので、ここにしてみましょう。

お正月なので、通常、600円の所が700円でした。

自分的にはお風呂は500円位で入りたいなぁ。。と思ってます。

なんでかというと、長野あたりに行くと300円位で天然温泉に入れるんですよね。

なので、街中のスーパー銭湯は総じてそれよりは高額になるのが相場で、あまり立ち寄らないのですが、他にないものは仕方ない。

お風呂に入ると、かなりな人の多さで、好みのお風呂に漬かることもままなりません。

「これじゃ全然リラックスできないなぁ。。」

「入場制限してくれればいいんだけど。。そうもいかないかぁ。」

ただ、施設は新しいこともあってしっかりしています。

「ん?電気風呂ってのがあるな。入ってみるか?」と電気風呂に入ってみました。

入ってみると、背に当たるところと、お尻よりは前の床に電気が流れる金属板があります。

「ン、ギギギギギ~~~~~、死ぬ~~~~。」

よくわからず、入るともろにその金属の上に乗ってしまいました。

全身の筋肉が硬直して手すりに掴まっている手だけがコントロールできます。

心臓を強制的にバクバクされている感覚までします。

「ヤバい、ホント、死ぬ。」というわけで、電気風呂は早々に退散しました。

お風呂からあがって、嫁にそのことを言うと、「あら、電気風呂最高でしたけど。」「ここのは電気強めでちょうど良かったわ。」とのこと。

「?」おかしい、なんか違うなぁ?と思って聞いてみると、どうも自分が使い方を間違っていたようです。

自分、背中の金属板にべったりくっつけてしまって、思いっきり電気流れるようにしてました。wwww

ホントは金属板と距離を取って自分で調整するってことらしいですね。

次回はホント気を付けます。

ホント、死ぬかと思った。

さて、今晩はどこに泊まるかと検索すると、「道の駅 津かわげ」というところがようさそうなので、そこを目指します。

道の駅津かわげ
道の駅津かわげ

ここ、ホント出来たばっかりのようで、かなり綺麗です。

なので、当然、すべてにおいて施設は満点です。

しいて言うと、ここ、朝7時から音楽が流れます。

それで強制的に起こされますので、そこがどうかなぁ。というくらいでしょうか。

まだ、あまり知られていないのか、車は少なめでしたので、おかげでぐっすり眠れましたよ。