東海を巡る真冬の旅 鈴鹿市 神戸城

さぁ、朝から高山神社の方のご厚意を受け、津城を見学させて頂きました。

ありがたく感謝しながらも、後にして、本日の目的地である知多半島を目指します。

知多半島を目指していますが、途中、神戸城というところがあり、気になります。

「寄ってみよう。」ってことで、見学してきました。

ちょっと、住宅地の中にあるので道が若干狭いのですが、駐車場もあるので問題ないと思います。

神戸城の石垣
神戸城の石垣

神戸(かんべ)城と読みます。

織田信長公の三男である、織田信孝に関わるお城ですね。

自分にとっては、織田信孝はすっかり秀吉に、やられてしまったというイメージでしょうか。

まぁ、秀吉のほうが一段上だったということなんでしょうけど。

仕方ないことですよね。

大体、二代目は甘い人が多いものです。まして、三男ですからね。

とはいえ、信孝は信長からはまだ目を掛けられていたようですね。

神戸城跡の説明板
神戸城跡の説明板

神戸信孝とも言いますが、説明にも軽く書いてあります。

信孝はこの地方の神戸氏に養子に出された訳ですが、和睦とは言いようで、乗っ取りですよね。

この当時の伊勢は滝川一益、織田(神戸)信孝、織田(長野)信包(信長弟、伊勢長野氏養子)、そして翌年頃に北畠氏の家督を継いだ織田信雄(信意)の4人で分割統治されていました。

この時の織田信長の伊勢統治の方法が養子にして乗っ取るというあからさまなやり方でしたね。

反対派は粛清され、残りは取り込まれていった訳です。

最後に信孝は、秀吉から自害を申し渡されて、切腹するわけですが、かなり豪胆な所業にでています。

「信孝は切腹の際、腹をかき切って腸をつかみ出すと、床の間にかかっていた梅の掛け軸に臓物を投げつけたといわれる。」

享年26歳ですから、この年齢で百戦錬磨の秀吉に勝つにはかなりな器量が求められますよね。

賤ケ岳で柴田勝家が負けたのは痛かったですね。

柴田勝家と織田信孝の連携がもっとうまく行っていたなら、秀吉の個別撃破とかさせない状況を作り出せたなら、勝てたのかも知れませんね。

例えば、長浜方面からの圧迫と関ケ原方面からの同時攻撃で、さらに柴田軍の琵琶湖を西から回って秀吉の背後を突くという形で止めが刺せたのではないでしょうか。

面白いのは、三男である神戸信孝のほうが先に養子に出されて領地を貰っている点ですね。

織田信雄よりも評価が高かったのでしょうかね。

実際、信長時代にも信雄は失敗が多かったですし、秀吉時代もかなりやらかしています。

石垣の痛みが目立つ神戸城
石垣の痛みが目立つ神戸城

そんな織田信雄ですが、「のぶかつ」と呼びますが、ウチの嫁は「のぶお」と呼んで私を爆笑させました。

一般的には「のぶお」ですからね。仕方ないかもしれません。

なので、織田信雄の話をするときは「のぶお」と言うだけで、夫婦間では通じるようになっています。

織田信雄は武将としては、イマイチでしたが、血筋は残したのが立派といえば立派ですかね。

織田信雄は上野国甘楽郡の小幡藩を統治していたりしまして、我が住まいの埼玉県北部からも近い所にありますので、何度かいったことがありますので、ちょっと親しみがあります。

神戸城の本丸
神戸城の本丸

伊勢新九郎こと伊勢宗瑞は昔の本では正体不明みたいに書かれていますが、最近の新しい本だと大分分かってきたようですね。

伊勢なので伊勢平氏が説明板に出てきますね。

伊勢新九郎(北条早雲)とも繋がる訳ですが、伊勢新九郎は備中伊勢氏(分家筋)ですね。

斉藤道三と同じですね。

道三は昔は一代で登り詰めたと言われていますが、今は道三の父(いわゆる油売り)と二代掛けて美濃の政権を奪うことに成功したというのが、本当の所のようです。

最近は研究が進んでいるので、昔の著名な人が書いた小説もかなり適当なイメージで勝手に書いていたのだなぁ。

というのがわかります。

本を売る為と本からドラマ、映画へ展開するために話を盛って書いているというのが、大分ありますね。

神戸城南側の堀、湧水源があるのでこちらは水が綺麗
神戸城南側の堀、湧水源があるのでこちらは水が綺麗

現在は公園なので、子供達が大きなけがをしない程度の高さでちょうどいいのかも知れません。

石垣もだいぶ痛んで来ている感じで、今はすっかり寂しい感じの城跡ですね。

写真では分からないですが、今は住宅街の中の公園です。

堀が少し残ってます。

神戸城西側の堀
神戸城西側の堀

昔は、おそらく沼地だったのでしょうかね。水が湧くらしく、それを上手く利用していたのでしょうね。

神戸城跡の碑
神戸城跡の碑

隣にある三重県立神戸高等学校は神戸城の二の丸、三の丸の跡地に建っているようです。