続いて長篠城です。ここが早く落とせていたらまた、その後の設楽原の合戦は展開が違ったものになっていたかも知れませんね。
正に武田家にとっての運命の分かれ道。
写真にある通りこの時点で武田は最大版図となっています。かなりな勢力です。
ここでの勝頼公の大きな選択が、その後の衰退へ導かれて滅亡となりました。
自分が思うに決して武田勝頼公は愚鈍な人では無かったと思います。
自分が思うのは財力とカリスマ(斬新的な知力を含めた)の差ではないかと思います。
この兜が物語るように、鉄砲を最大限に生かす戦法への転換点となったことが大きいです。
織田はこれまでの間に、大阪本願寺との戦で、雑賀との戦で鉄砲を用いた戦を嫌というほど負けながら実感していることが大きいです。
その負け戦から学んだ鉄砲活用法をさらに進化させて、上手く野戦に用いたというところが信長の凄さですよね。
負けても死ななければ良い、そしてまた戦して、また負けて、段々と戦が上手くなっていく、そういう判断力ってなかなかできないものです。
逆に武田はこの時点で信玄公の行った戦のやり方からはあまり進歩していないのですよね。
この辺りの差が非常に大きかったのだろうと思います。
しかし、遺言通りに上杉謙信公と和睦していればなぁ。。この戦自体勝っただろうと思います。
しかし、ホント要害の地ですよね。
長篠城、500人で守ったのだからなぁ。。
まぁ、確かにあまり大きい城ではないです。
国土地理院の地図で見てみましょう。
地続きの北側しか攻めるところが無いですよね。
なので、こちらに水堀、空堀が巻いているのが分かるかと思います。
攻めにくい城だったことが良くわかりますよね。
合戦場との位置関係はこんな感じです。