ちょっと、旅の話から離れて、現在、自分が関心あることを書いておきます。自分は埼玉県北部に住む清水と言う苗字です。
歴史好きなので、自分のご先祖様が気になって、ちょっと調べています。
どうやって調べようかなぁ。。と、思ってましたが、市町村の歴史を綴った本が大体どこでも作られているので、それを見てみよう。と思って県立図書館に行って見てみました。
調べてみると、なんと、全然役に立たず。。
思惑と違い、困ったなぁ。。。。と半分諦めつつ、他に目ぼしい本が無いかと、本棚をみていると、「埼玉苗字辞典」なる本を発見しました。
かなり分厚い本で4巻になっています。
「あ~よ」までを纏めたものになっていましたので、もちろん「し」の項目の「清水」を探します。
すると、以下のように書かれていました。(埼玉苗字辞典より長文抜粋)
清水 シミヅ 志水の佳字なり。
志は斯盧国(後の新羅)、水(うず)は渦にて海洋民の意味。
新羅の海洋民を志水、清水と称す。
紀元前五十七年に即位した新羅初代国王朴赫居世を養育した斯盧国(後の新羅国)の高墟村長の蘇伐都利あり金姓にて、其子に蘇那曷叱智の名見ゆ。
村長の意味なり。シラギ条参照。
また、日本書紀・崇神天皇六十五年条に「任那国、蘇那曷叱知を遣して朝貢す」。
任那の蘇那曷叱知(そなかしち)の蘇は金(そ)、那は国、曷は邑、叱知は首長、邑長の意味で、金国(鉄の産出する国)の邑長を称す。
垂仁天皇元年条に「是の歳に、任那人・蘇那曷叱智請さく、『国に帰りなむ』とまをす。
蓋し先皇の世に来朝して未だ還らざるか。
故、あつく蘇那曷叱智に賞し、仍りて赤絹一百匹をもたせて任那王に賜ふ。
然るに、新羅人・道に遮へて奪ふ。
其の二国の怨み、始めて是の時に起る。
一に云はく、意富加羅国の王子、名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、亦の名は于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)と曰ふ」と。
都怒我は新羅の最高官位の角干(つぬかん)、干岐は古代朝鮮語の君長の意味。
垂仁天皇二年条に「額に角有ひたる人、一の船に乗りて、越国の笥飯浦(けしうら。福井県気比神社附近)に泊れり。
故、其処を号けて角鹿(つぬが)と曰ふ。
問ひて曰はく、『何れの国の人ぞ』といふ。
対へて曰さく、『意富加羅の王の子、名は都怒我阿羅斯等』。
赤織の絹を以て阿羅斯等に給ひて、本土に返しつかはす。
故、其の国を号けて彌摩那国(みまなのくに)と謂ふ。
新羅人聞きて、兵を起して至りて、皆其の赤絹を奪ふ」と見ゆ。
任那国(みまな)は韓半島南部にあった弁韓の意富加羅(おおから)附近を云う。
三国遺事卷二に「大駕洛(おおから)、又称伽耶国」とあり。
金海の伽耶(かや)である。
姓氏録・左京諸蕃に「清水首、任那国の人・都怒賀阿羅斯止より出づる也」と見ゆ。
首は意毘登(おびと)と訓ず。
古史伝に「多く部の有るべき諸姓に負へるを思ふに、其の部を統領る首と云ふ義の尸なり」と。
成務天皇条に「県邑に首を置く」とあり。
任那の渡来人清水族の首長を清水首と称し、清水族の渡来地を清水郷と唱える。
賀美郡清水庄あり、久上村(上里町)は清水庄を唱える。
榛沢郡人見村字清水(深谷市)あり、岡部村聖天社(今の岡部神社)応永五年大般若経に「武蔵榛沢□□清水泉蔵寺」と見ゆ、□□は人見か。
また、埼玉郡下忍村字清水(行田市)は清水村と唱える。
とあり、ざっくりまとめると以下になると思います。
- そもそもは清水ではなく、「志水」と名乗っていた、志は斯盧国(後の新羅)を表し、水は渦(うず)にて海洋民の意味。新羅の海洋民だった。
- 意富加羅国(任那国の人)の王子で都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が清水首(族長の意味かと思います。)として、福井県気比神宮近辺に住んだらしい。数年後、国に帰った。という説もある。
- 埼玉北部の現在の上里・児玉・美里・用土・畠山・岡部・人見などに土着した模様
- 武蔵七党の丹党(12世紀後半)のなかで志水を名乗る者あり(これは記載はなく、丹党の系図に出てきます。)
正直、1、2、に関してはどうかな?という感じです。
まぁ、他の3、4に関しては事実ですので、良いでしょう。
埼玉北部だとこういった感じに収まるように思います。
なんということか、この本みれば古代まで一気に分かってしまうとは。
話半分としても凄いです。
各々の地域(旧村単位)で調べているので、膨大な量の清水氏の歴史が読めますよ。
苗字辞典なので、埼玉の人の苗字はおおよそ調べることができるようです。
で、Webで調べたら、そのままWebになってました。
下↓は辞典全体のリンクです。
下↓は苗字が「シ」で始まるページです。
非常に面白いです。
埼玉の人はおおよそ自分のルーツが分かるのではないだろうかと思います。
ただ、この本はそもそもの上記の引用した文には裏付けがなく「?」なので、なんでも朝鮮系からの渡来人としているのが今のDNA解析からするとおや「?」という節があります。
DNA的には縄文人が駆逐されたわけではなく、反対にかなりしっかりと縄文人のDNAは残っていて、弥生人(渡来人)は少数だった様子が今は分かって来ています。
渡来人の所は置いといても、江戸時代後期頃の清水氏の活動が見えてくるのは嬉しいです。(ここには引用していませんが。)
おもに清水氏は、後北条氏位(16世紀中頃まで)までは武士として(駆り出されて、当時は専業武士はまだいないので。)も活躍していたようですが、小田原征伐後は帰農した清水氏が多いようです。(一部は専業武士になった方もいるようです。)
江戸時代は、名主やら地頭やらといった有力者が多かった様子が伝わって来ます。
確かに、祖父が言うには、祖父の祖父(私の四代前の先祖)までは自分の家も名主的な家だったらしいですが、その四代前のご先祖が「飲む。打つ。買う。」の三拍子で家が破綻したらしいです。
そこからはかなり苦労したようですが、自分の父がかなり頑張って(昭和の景気良さに乗って)人様と遜色ない程度には戻った感じではあります。
読んで見て、かなりなところまで自分のご先祖様が理解でき、どのあたりの所から派生したかが分かったように思います。
しかし、気比神宮が出てきてビックリしました。
以前、気比神宮に行った時に、気比神宮は鳥居が有名なので、その鳥居の写真を撮った所、不思議なことに龍のような雲(いわゆる龍雲)が写っていました。
とは言え、かなり後で気が付いたのですけど。
下、イメージ図です。液タブなんか使って書いてますが、下手ですねぇ。
なので、なんでだろうか?
と思っていたので、これを読んだらそもそもご先祖様に縁があった為に、こうして写ったのかもしれないなぁ。
そういうことかなぁ。とちょっと都合の良いように解釈しております。
遠い遠いご先祖様に知らず知らずのうちに呼ばれて、「気が付けよ、おい!」ということなのでしょうかね。ww
しかし、それもこの本に出合えなかったら、一生分からず仕舞いでしたね。
不思議なことです。
あと、関係ないですが、熊谷のお土産と言えば、五家宝ですが、なんと五家宝を作った人は清水さんでした。
親近感湧きましたね。www
とりあえず、分かっていることはここまでです。