東海を巡る真冬の旅 知多半島 佐治氏の大野城 

神戸城を後にして、さて、お昼ですね。先を急ぐので、簡単に済ませたいところです。久々ですが、四日市の幸楽苑に入って見ました。

ラーメンで簡単に済ませ、車を進めて行き、名古屋市内の渋滞にあまり会うこともなく進むことができました。

名古屋市内を走っていると、皆さんほぼスタッドレスタイヤは履いてませんね。

都市部特有の「雪はそんなに降らない」「自分は事故らない」という根拠のない自信を持つ方が非常に多いですよね。

そういう人に限って、陸橋が凍って滑って事故るという過信からの事故が多いのではないかと思います。

大した額でも無いのだから、保険代わりに買えばいいと思うんですよね。

買わない人の次にいう言葉は決まっていて「履き替えるの面倒」です。

人を轢いてからじゃ遅いんだよなぁ。と思います。

今はオールシーズンタイヤという都市部に降る位の雪なら全然OKというタイヤもあるので、それにすればいいと思います。

最近の物は評価も上がってるので、おススメだと思います。

自分も次はこれにしようと思ってますよ。

同僚がこれ履いていて、「履き替えなくてイイよ」って言ってたので、ちょっと揺らぎますね。

さ、そんなタイヤ談議は置いといて、

国道155号線を南に常滑市方面へ走っていると、

「ん?正面に城が見えるけど、こんなところに城かぁ。まぁ、でも寄ってみますか。」

ということで、行ってみました。

常滑の大野城
常滑の大野城

どこも模擬天守ってあるけど、実際天守なんてなかったところばっかりですよね。

大野城というお城です。全然、知りませんでした。

天守風にしないで櫓にすればいいと思うのですがねぇ。

それでもまだ、ここは櫓風でもあるかな?なので、良い方でしょうかね。

大野城の説明板
大野城の説明板

素晴らしいですね。

むしろ、潔し。

開き直っている所がいいです。

説明板の最後に(*なお、この建物は当時の建物を復元したものではありません。)とあります。

大野城の城門
大野城の城門

佐治氏は室町時代の終わり頃から戦国時代に四代の城主が続いて知多半島一帯に勢力を張っていたと言われています。

大野城址の沿革

ここは4代続いた、佐治氏の城があったところ。古くは宮山城とか大野城と呼ばれていました。

一代と二代は省略、目ぼしい所のみ記載

三代 佐治八郎信方(元亀2年(1571年)5月9日没)

織田信長の妹のお犬の方を嫁に貰う、それに伴い信長の傘下に入るが、伊勢長島の戦いで討ち死に。

四代 佐治与九郎一成(寛永11年(1634年)没)

お市の方と浅井長政の娘で三女の(信長の姪)江を嫁としたが、小牧長久手の戦いで秀吉の勘気を被り離婚、大野城退去後は、伊勢に居り後に京都で病死したと伝えられている。

江のほうは羽柴秀勝へ再嫁するも、文禄の役中に朝鮮国の巨済島において羽柴秀勝が病死してしまう。

その三年後に二代将軍となる徳川秀忠へ嫁ぐことになる。

大野城本丸展望台からの眺め、防御の為、斜面をきつくしている様子が伺える
大野城本丸展望台からの眺め、防御の為、斜面をきつくしている様子が伺える

この中で、まず気になるのは三代の信方公の嫁が信長の妹のお犬の方という所でしょうね。

要するに妹を嫁に出すほど重要だったこと。

お犬の方はお市の方と同じ母親の土田御前から生まれています。

お市の方は絶世の美女と言われていますので、お犬の方もさぞかし綺麗な方だったのではないでしょうかね。

大野城の空堀
大野城の空堀

知多半島を抑えるために美人の妹を送る。したたかなやり方ですね。ハイ。

こういうところは上手いですよね。信長。

大野城本丸展望台からの眺め伊勢湾方向
大野城本丸展望台からの眺め伊勢湾方向

実際に嫁いでいたかは不明とも言われているらしいですが、婚約はしていたのは事実らしいです。そして、次に徳川秀忠の奥方のお江の方が最初に嫁いだ相手ですね。

でも、佐治一成公は不運な方ですね。

しかし、ここ眺めが良く伊勢湾を一望できます。

大野城本丸展望台からの眺め北方向
大野城本丸展望台からの眺め北方向

水軍も有し、伊勢湾を制していたらしいので、結構、佐治氏も全盛期は侮れない勢力だったのでしょうね。

大野城本丸からの眺め
大野城本丸からの眺め

でなければ、お江を嫁にするほど重要だったという裏付けが無いわけですからね。

しかし、なかなかの標高差ですね。いい場所というか良い立地にありますよね。

空掘りもしっかりと残っているし、まずまずのお城ではないでしょうか。

その後の大野城ですが、すぐ廃城になります。

三代の信方が長島一向一揆で戦死したが、嫡子佐治一成が幼少だったので、織田信長の弟織田長益(有楽斎)が知多郡を与えられ、大野城を与えられる。

織田長益は大野城の水利が悪いため嫌い、大草の地に築城を始める。

が、本能寺の変が勃発し、途中放棄で再び荒廃。

小牧・長久手の戦い後、長益が摂津国に移封されたため完成を待たずして廃城となった。

大草城は本丸、二の丸、三の丸を配し、本丸、二の丸の周囲を堀(水堀も)と土塁で囲った梯郭式縄張が良好な状態で残り現在も見ることができる。

江戸時代に入ると、尾張藩は大草城跡を知多郡の防御上重要な地として、家老の山澄淡路守英龍に大草の地(5,000石)を与え城址近くに居を構えて城址の保全をさせ、歴代の山澄氏によって保存された。

現在でも城跡の周辺に東屋敷や西屋敷などの大字が残る。

とのことで、やはり良い場所に城があるということですね。

大野城はちょっと小さいので、大草城と大野城で連携すると面で対処できるので、効果が上がりますよね。

そんなところを見越していたのでしょうかね。