さて、「道の駅津かわげ」を後にして、1月2日の朝は、津城の見学からスタートしたいと思います。とりあえず、津城に隣接する高山神社を目指しています。
なぜなら、ここは藤堂高虎公を祀っておられて、御朱印が頂けるのですよね。
個人的に武将御朱印帳というものを個人的に集めていまして、武将が祀られている神社に行って御朱印を頂いてくることを目的にしています。
なので、正月二日の朝から高山神社で御朱印を頂きました。
ありがたいことです。
ちなみに、お城を見学したいので、神社の方にこの辺りに駐車場はありませんか?と聞いてみたところ、「あぁ、ここに停めて見学すればいいですよ。」と、おっしゃってくださいまして、ありがたくご厚意甘えることにしました。
ありがとうございました。
さぁ、では、津城を見学してみましょう。
ご厚意に胡坐をかくわけにはいきませんので、足早に見学してしまいましょう。
津城を建てたのは、もちろん藤堂高虎公です。縄張り名人としてかなり有名ですよね。
いろんなお城を建ててます。
関わったとされるお城を載せてみましょう。
ちょっと量が多いので、城名だけにしておきますね。並びは築城順です。
出石城、大和郡山城、京都聚楽第、粉河城、赤木城、伏見城、宇和島城、伊予大洲城、順天倭城、膳所城、甘崎城、今治城、江戸城、津城、伊賀上野城、丹波篠山城、丹波亀山城、二条城、和歌山城、大坂城、淀城
このほかにも高槻城、駿府城、羽柴秀長の和歌山城築城にも関係したとか言う話もあるそうです。
それを含めると23城かぁ。多いですね。
人生のかなりな部分が築城ということですね。
お城以外の建造物も有名なところは、日光東照宮の造営奉行、上野寛永寺の造営、京都南禅寺に三門(楼門)を造営
ん~。凄い。大活躍ですね。
自分が行ったことがある藤堂高虎公のお城は、
大和郡山城、宇和島城、伊予大洲城、今治城、江戸城、津城、伊賀上野城、丹波篠山城、丹波亀山城、二条城、和歌山城、大坂城
の12城ですかね。まぁ、有名な所が多いですから好き嫌いに関わらず見てますよね。
でも、割とどこも好きな城ですねぇ。うん。
藤堂高虎公の縄張りの特徴はシンプルながらも守りやすいをモットーにした城が多いと思います。
丹波篠山城の馬出は見事ですね。
攻撃性を高めるのと、万が一馬出を突破されても桝形と櫓で防御を高めています。
方形で面積の大きすぎないお城が多く、桝形を用いた門が多用されています。
そしてもっとも特徴的なのが高石垣ですよね。
鉄砲にしろ、弓矢にしろ、打ち下ろすのが圧倒的に有利ですよね。
なので、石垣を高く積むのが特徴です。
しかし、ホント、見事なまでに積むよなぁ。と思います。
あとは、堀の広さでしょう。これも弓や鉄砲の威力を弱める為ですよね。
あと、藤堂高虎公と言えば、主君を七度変えていると言われていますので、追ってみると、
1.浅井長政、2.阿閉政家、3.磯野員昌、4.織田信澄、5.豊臣秀長、6.豊臣秀保、7.豊臣秀吉、8.徳川家康
以降徳川家に仕える。
なので、変更したタイミングが7回ということで、主君は8人違うということです。
あと、身体的特徴が、身長は6尺2寸(約190センチメートル)の大男だったようです。
亡くなった時の高虎公の身体は満身創痍の身体で、弾傷や槍傷で右手の薬指と小指はちぎれ、左足の親指も爪が無く、左手の中指も短く爪は無かったそうです。
とはいえ、当時はかなりの高齢の75歳で高虎公が死去します。
その際に若い近習が遺骸を清めて驚いたと言われているそうです。
凄いですね。気持ちが強い人なんでしょうかね。
非常に逸話の多い人でもあります。
以下に幾つかの逸話を載せて見ます。
その1
高虎公は家臣が暇乞いを願い出る者があると、茶を振る舞ってもてなし、さらに自分の刀を与え、「行く先が思わしく無ければ、いつでも戻ってくるが良いぞ」と別れ、少しも意に介さなかったそうです。
実際、その者が新たな仕官先で失敗して帰参を願い出ると、元の所領を与えて帰参を許したという。
ある時、この高虎の行為に家臣が反発すると
「臣僕を使うのに禄だけでは人は心服しない。禄をもらって当然と思っているからだ。人に情けを掛けねばいけない。そうすれば意気に感じて、命を捨てて恩に報いようとするものだ。情けをもって接しなければ、禄を無駄に捨てているようなものである」
と述べたと伝わる。
その2
戦国時代後半から江戸時代初期、主君が死ぬとその後を慕って殉死する者が絶えなかったが、高虎はこれを厳禁とした。
生きていれば頼りない嫡子の高次を支えてくれる有能な人材を失ってはならない、という強い想いがあった為と思われる。
そこで国元において箱を書院に置き、
「自分が死んだら殉死しようと考えている者はこの箱に姓名を記した札を入れよ」
と命じた。
開けてみると40人余の札があり、続いて駿府屋敷でも同じ命令を出すと30人余が名乗り出た。
高虎は70人余の名を書いて駿府の家康を訪問し、
「私が死んだら殉死を願い出る者がこんなにいます。皆、忠義の者で徳川家の先鋒として子々孫々までお役に立つ者たちです。ですので上意をもって殉死を差し止めて下さい」
と嘆願し、家康も了承した。
高虎は家康の書状を受け取ると70人余を集めて家康の上意であることを伝えた上で、
「殉死を願い出た者は殉死したも同然である。家康公の厳命に背いてはならぬ。殉死は絶対に許さぬ」
と、
「自分の死後は腹を切らずに、切腹したつもりで藤堂・徳川両家のために働くように」
命じた。
この70人の中に1人だけ命令に同意しない者がいた。
彼は合戦で右腕を失っており、生き長らえても役には立たないから自分は殉死させてほしいと願い出た。
しかし高虎は許さず、家康もこれを聞かされて
「藤堂は我が徳川の先鋒。命令に違えて1人でも殉死したら藤堂の先鋒を取り消す」
と厳命したため、その者も生きることに同意したという。
その3
江戸時代を通じて津藩藤堂家の家臣は高虎のある遺訓を座右の銘とした。
それは「寝屋を出るよりその日を死番と心得るべし。かように覚悟極まるゆえに物に動ずることなし。これ本意となすべし」である。
つまり高虎は毎日を今日こそが死ぬ日だとの覚悟を持って生きよと家臣に言い聞かせたのである。
現在、伊勢の津城跡には高虎の騎乗像と共にこの遺訓を記した碑が建っている。
その4
慶長の役において加藤嘉明と功を競いそもそも仲が良くなかったのだが、高虎の領地が今治藩、嘉明のそれが伊予松山藩と隣接していて、境目争いなどがあったようで仲が悪かったと言われる。
そんななかで、以下のような話もある。
陸奥会津藩主の蒲生氏が嗣子無く改易されたとき、徳川秀忠は高虎に東北要衝の地である会津を守護させようとした。
しかし高虎は「私は老齢で遠方の守りなどとてもできませぬ」と辞退した。
秀忠は「では和泉(高虎)は誰がよいと思うか?」と質問すると「伊予の加藤侍従(嘉明)殿です」と答えた。
秀忠は「そちは侍従と不仲だったのではなかったか?」と訊ねた。
当時の嘉明は伊予20万石の領主で、国替えがなれば40万石の太守になり30万石の高虎より上になるためでもある。
しかし高虎は「遺恨は私事でございます。国家の大事に私事など無用。捨てなければなりませぬ」と答えた。
のちにこれを聞いた嘉明は高虎に感謝して和解したという。
実際には、会津藩主にのちの世で賢君の誉高い保科正之公が成る。
その5
講談、浪曲『藤堂高虎、出世の白餅』では、阿閉氏の元を出奔し浪人生活を送っていた若き日の高虎(当時は与右衛門)が空腹のあまり、三河吉田宿(現・豊橋市)の吉田屋という餅屋で三河餅を無銭飲食し、そのことを店主の吉田屋彦兵衛に正直に白状して謝罪した。
だが彦兵衛に「故郷に帰って親孝行するように」と諭され路銀まで与えられる。吉田屋の細君もたまたま近江の出であったという。
後日、大名として出世した高虎が参勤交代の折に立ち寄り、餅代を返したという人情話が伝えられている。
ちなみに高虎の旗指物は「三つ餅」。
白餅は、「城持ち」にひっかけられているともいう。
などなど、他にも家康との逸話がまだまだあります。
ちょっと載せきれないので、この辺にしておきましょう。
なかなか、人間的な魅力に溢れた人だったんだろうと思います。
賢く、タフでしたたかで、人情もある。
ん~欠点があるのか?っていう感じですね。凄い人です。
興味があれば、火坂雅志さんのこちらの本がおススメですよ。