2022/05/04 GWの旅の途中で立ち寄らせて頂きました。
白石城といえば片倉小十郎景綱公ですね。
伊達政宗公を支えた右腕として、そして名君としても名高い方ですよね。
関ヶ原の後の慶長7年(1602年)、主君・政宗が仙台藩主になると一国一城令が敷かれる中、特例として残された白石城1万3000石の城主を賜る。
引用:片倉景綱 -Wikipedia-
なにしろ上記が全てを表すように思います。
それだけ重要な人だったことが、徳川側からも認められていたということでしょうね。
そして片倉喜多公ですね。
喜多は文武両道に通じ、兵書を好み講じたという。また、弟の景綱も喜多の教化を強く受け育ったという。その後、伊達輝宗の命により、永禄10年(1567年)8月3日 に誕生した伊達政宗の乳母を拝命する。
引用:片倉 喜多 -Wikipedia-
伊達政宗公の乳母であり、片倉小十郎景綱公を文武両道に育て上げた女傑、この人のことも忘れてはならない方でしょう。
白石があるのもこの二人の貢献が多分にあるのではないだろうかと思います。
そして、ここ白石城は、
1868年(慶応4年、明治元年)、戊辰戦争の際、奥羽諸藩の代表たちが白石城において白石列藩会議を開き、これが奥羽越列藩同盟の結成につながった。白石城には公議府が置かれ、北白川宮能久親王が滞在した。
引用:白石城 -Wikipedia-
とまぁ、結構と歴史的なイベントもあったりして、侮りがたい場所でもあります。
しかし、現在、白石城の大櫓(一般的には天守)は、2021年02月に起こりました、福島県沖地震(最大震度6強を観測)で被害を受けたために復旧工事中でした。
白石城の天守閣ですが、天守閣とは言わないそうです。
大櫓と言うそうです。
これは仙台青葉城に天守閣が無いのに、支城である白石城に天守閣とは言えなかった為だと言われているそうです。
いわゆる忖度ですね。昔からホント日本人は気を使って生きてますね。
まぁ、その辺りはどうでもいいではないかとも思いますけど。
しかし、昔の縄張り図を見ると、しっかりと江戸時代初期のお城らしいお城ですね。
縄張りは東側に重きを置いているのだけど、仮想敵となる街道筋は国道4号線の南からと、国道113号線に沿って西から来るので、そちら方向からの備えはさほど無いように思えます。
城としては白石城は支城なので、青葉城への支援ができればよいのかな?
それか逆に攻められれば、青葉城から支援が来るから良しとしているのか。
城の南に連なる寺群に伏兵として遊撃する作戦という所でしょうか。
自分だったら、ここに築城せずに白石川を北に渡った所にある現在東北自動車道の西の舌状台地に立てたと思います。
街道筋をすべて見下ろせるし、封鎖できるし、攻め口が南、もしくは東となるのでかなり便利だと思います。
しかし、そこだと堅固過ぎるので、平和な徳川の世では建てると剣呑な感じで徳川に立てつくのか?と言う感じでまた忖度してダメだったのかもしれないですね。
まぁ、そんな妄想は置いといて、白石城、おススメです。
城下町にある片倉家中旧小関家 武家屋敷ですが、こちらも地震の影響で見学できませんでした。残念。
あっ、そういえばここ白石は特産物として温麺(うーめん)が有名ですので、お昼ご飯に頂きました。
手延白石温麺 味見処 光庵という、温麺の製麺所でもあり食事処でもありますところで頂きました。
自分達は初めて食べるので、恐らく無難な入門編的位置の三味うーめんにしました。
つけダレが三種類、めんつゆ、ごまだれ、くるみだれです。
どれも美味しかったですよ。おススメです。
お土産で1箱買って帰りまして、只今、絶賛毎週末のお昼ご飯として消費中です。