皆川城から移動して途中お昼ご飯を頂き、下野国の歴史を知ろうといくつか重要な所を巡ろうと思います。
まずは薬師寺跡です。
上の写真、林の手前が薬師寺跡になります。
その昔、下野国は大変重要な所で、奈良時代では三戒壇の一つの場所として存在しました。
戒壇(かいだん)とは仏教用語で、戒律を授ける(授戒)ための場所とあります。
仏教が伝わっては来ましたが、僧侶は無税なので、勝手に僧侶を名乗るインチキものが多かったらしいです。
その為に、「国の機関で僧侶と認めたものを僧侶とする。」ということです。
勝手に僧侶と名乗る人が多かったということなんでしょうね。
税の負担が多かったことの現れでもあるように思います。
竹藪の向こうは普通の民家↑
なんか、最近の新興宗教とかと大して変わらないような気がしますよね。
薬師寺跡としてはこれだけしか整備されていませんでした。↑
昔からインチキ臭いのはどこにでも居たってことですね。
戒壇は戒律を受けるための結界が常に整った場所であり、授戒を受けることで出家者が正式な僧尼として認められることになる。とあります。
そして三戒壇とは、東大寺に戒壇院を建立し、筑紫の大宰府の観世音寺、下野国(現在の栃木県)の薬師寺に戒壇を築いたこれを天下の三戒壇という。
ということで、いかに下野国が重要な所であったかが分かりますよね。
続いて下野薬師寺歴史館
近くの下野薬師寺歴史館に収蔵品があります。
思ったよりも、収蔵品が少なかったかなぁ。それも仕方ないですね。
戦国時代に戦に巻き込まれてお堂を焼失、以後はすっかりと衰退してしまったようです。
続いて下野国庁跡です。
資料館に気が付かず、このまま離れました。
草が茫々としていてちょっと遺跡跡に入れませんでした。
帰ってから気が付きましたが、すぐそばに資料館があったようです。
また行って見ましょう。
一番見たかったのはここ国庁跡なんですが、資料館を見逃したのは痛いです。
ここは奈良時代の当時、蝦夷との闘いで補給基地の役割をしていたのではないかとおもいます。
前線の拠点基地で有名なのは、先日訪れた宮城の多賀城ですね。
他には秋田城とかもありますよね。
弥生時代から東征と称して、何度も何度も追いやられていった蝦夷(縄文人のことなのだとおもいます。)ですが、奈良時代には多賀城以北まで追い込まれたということです。
自分が思うに出雲族と言われる人たちは蝦夷(縄文人)だったのではないかなぁ。とおもいます。
弥生人の最新武器に勝てなかったということなんだと思います。
続いて国分寺跡
周辺の古墳の分布図かなり多いです。
国分寺跡にはさほど興味はありませんでしたが、すぐそばの栃木県埋蔵文化財センターには興味があります。
なにやら素晴らしい勾玉が展示されていました。
新潟で有名な火焔土器っぽい土器があります。
交流があった様子が伝わりますね。
このパネルは衝撃的ですね。縄文海進という状態です。
この当時は平均気温が2~3℃高かったらしいので、水位が高くて海が広かったとのこと。
千葉はほぼ島という感じですからねぇ。。
縄文土器なんかもいくつかあったりして楽しいですよ。
もちろん埴輪もありました。
古墳は大きさよりも数が凄いです。
そんなわけで、まとまりが無いですが、栃木県の下野市や栃木市周辺の歴史でした。
家の近くでも色んな歴史を感じる所があり、そこここに色んな話があったのだと思います。
皆さんもご近所でも出掛けてる見るのがよろしいかと思いますよ。
今回はちょっと記事が盛り沢山でしたね。その分まとまりがなくすいません。
追記 <2020/2/23>
栃木に行くことがあったので、下野国庁跡資料館に行って来ました。
かなり資料的には少ない感じでしたね。
10分位あれば見終わる感じでしょうか。
上の写真が国分寺跡の領域
こっちは下野国庁の領域です、かなり大きいです。南北1km、東西0.5kmと言われるらしいです。
ここから下はよくある発掘品の説明と復元品関係ですね。
東山道の関係が書かれているのはちょっと珍しいと思います。
先日、「馬」が動かした日本史という本を読みました。
それによれば、飛鳥から奈良時代・平安時代位までの東海道は天竜川・大井川とかの河川に橋を作ることが、技術的にまだできない時代なので、全く発展しておらず、東山道がメインの街道だったとのことです。
そして、東山道沿いにはあちこちに勅旨牧・諸国牧(牧場)があり、それが発展していき駅制に繋がり、そして武士の発展に繋がっていくということを学びました。
ざっくり書きましたが、もっとしっかり、書かれていて、かなり面白い本でした。
おススメです。